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2009年 12月 14日 月曜日

死者2415人、負傷者11306人は阪神大震災とほぼ同格、または上回る規模 ── これが、1999年9月21日深夜1時47分、台湾中部の南投県集集鎮を震源として発生した20世紀の台湾で一番大きな地震、M7.3の921大地震。その921地震に関した資料の展示と、国民への防災意識啓蒙と教育を目的に建てられた… 921地震教育園區を訪ねた。


▲人の背丈程も隆起したトラックに呆然
私がボランティアで行っている「人と防災未来館」に似た機能を持った、国によって経営・運営されている施設で、光復国中学校の校舎及び校庭だったものを利用。元中学校に地震博物館を建設し、震災跡を保存 ─ 震災で破壊された校舎や校庭をそのまま保存すると共に、映像や図書を収集し、地震についての予備知識の普及定着を図るべく国が主体となって協議設置し、地震体験エリアや防災教育センターも併設されている。

保存された校庭はそのままそり上がっていて、山のよう。校舎は破壊されたが、子供達がいなくて良かった。もしいたらと想像するだけで、震える。隣接する川は、校庭のようにそり上がって、小さな滝になっていた。中には、各国から派遣された緊急救助隊の規模についても展示されており、

  1. 日本145人

  2. 米国93人

  3. ロシア73人

  4. スイス40人

  5. シンガポール39人

  6. トルコ36人

  7. スペイン28人

  8. ドイツ21人

  9. 大韓民国16人


…と、やはり地震経験国からの援助が素早い事が分かる。


▲呉徳棋氏と共に
我々を案内して下さった呉徳棋主任は、
「まず日本が、翌日には入ってくれた。そして、凄い技術で救援をしてくれた」
と繰り返し仰った。また
「台湾は午前1時47分の地震発生から3分後に内政部で「緊急応変チーム」を、中央政府では『921地震中央処理センター』を成立させ、午前2時30分には組織的活動を開始していた。午前4時には、軍隊の救援部隊が次々と被災地区に入って救助した」
と胸を張られた。

なるほど、見事である。阪神大震災時の死亡者数6434人より被災死亡者が少ないのは、我々神戸の場合には人口密集箇所を襲われたのに対し、地震の規模としては台湾の921大地震の方が大きく、地理的条件が同じなら、もっと死傷者が増えていただろうと推察する。台湾では人口密度の低さが不幸中の幸いだった。しかし、それでもなお、危機管理は我々神戸の時よりもベターだった。

地震に対して日頃から持っている危機感も、阪神大震災前の我々より高かったに違いない。それでも、彼らはいろいろな検証を加え、李登輝総統は国家と国民の緊急時応変能力を強化するべく司令を発令され、なんと株式市場の取引停止を含む金融安定化・危険建物の鑑定・法令改正・補助金納付や兵役義務を含む、あらゆる政策の実施と法整備が行われたという。


▲隆起したフィールドトラック、
大きく崩れた校舎…
国家国民を上げて、大変な対応をとられたわけだ。さて、我々はそこまでやっただろうか。私は、呉徳棋氏と語り合った。
「経験を生かして、未来に生かす力は台湾の方が上であると思う」
と言うのだが、彼は謙遜していた。今ここで一つずつ展示物の内容を比べたりはしないが、そこには、かなりの差を感じさせられたのである。

「来年の春10年目になるので、このコーナーで阪神大震災の写真展示をやりたいと思って、人と防災未来館にお願いしようと思っている」
と仰る。私は
「お手伝いします。時間が許せば、自費で再び足を運んででも」
と約束して、別れた。多くを学んだ見学だった。

◆◆◆


ところで、帰路の車中での事。私の上着のボタンがちぎれ、困っているのを見ていたのだろうある民主党の女性議員、次に会った時に裁縫道具を
「ボタンが取れましたね。宜しければ、お使いになりませんか」
と手渡ししてくれたばかりか、小声で
「私がしてあげましょうか」
とも言ってくれた。私は思わず、この優しさに感動した。

日頃気難しく、理論屋で、ろくに話もした事のない女性議員で、おそらくご本人も私に良い感じは持っておられないだろうに、旅で困っているのを見て言ってくれたのだろうか。私は思わず「ありがとう」と言いかかったのを止め、
「道具だけお借りします」
となにくわぬ顔で裁縫道具を受け取った。しかし、私は自分が恥ずかしかった。こんな事にまで民主党に助けられては名が廃るというチッポケな根性…素直に、その善意に応える事ができない自分 ─ でも、心は温かかった。こんな優しい人が議員にいるなんて、と思った。


▲反省しながらボタン付け
私達は、この出張では一銭も税金を使わず、自腹を切って旅をした。お詫びに、その女性議員をお食事にでも誘おうかとも思ったが、問題視されてはと思いなおし、止めた。その日は、反省しきりであった。

明朝、老眼のせいで針に糸を通せなず、フロントの女性に通してもらって、ボタンを付けた。借りた裁縫道具をさりげなく
「ありがとう、助かりました」
と言って返したのが、この旅の大きな思い出になった。旅は、何度出ても楽しいものである。