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2009年 12月 13日 日曜日

自・公・民の議員で結成した日華親善神戸市会議員連盟と、兵庫日華親善協会及び神戸華僑総会の三者が一団となって、台中市議会及び市長、また台北では外交部の亜東関係協会との親交を深めるべく、訪華。私は今回、特に10年前の1999年9月21日に起きた台中の震災現場と、国立自然科学博物館で921地震教育園區の、二つの訪問が叶うというので、それを目的に参加した。


▲平野団長と新幹線の出発点を指す
台北から新幹線で台中まで、約1時間。料金は標準車料18000円。車輌は川崎重工で作成されたもので、日本の新幹線にそっくりだ。

▲台中市議会

台中市議会では、議長他6名の議員団の歓迎を受け、色々なお話しを伺ったものの、約1時間30分後には隣の台中市役所を訪ねる駆け足。台中市は人口106万人。台湾第三の都市で、市制施行されたのは1920年(大正9年)10月1日。

シンボルマークは、当時日本人が制作した。建物は1920年9月に、これまた日本人の設計士によって設計・建築。まるでギリシャのパルテノン神殿のような白い柱の正面玄関に、屋根はドーム型だ。

終戦後は、国民党が1986年まで使用していた。その後、市の資料館・社会局や交通局となる。大地震後は、迎賓館的に使用されていた、そんな部屋で台中市の市長が、我々のため会談に参加。神戸から台中の地震についてのお礼に加え、市長がかつて外務大臣をしていた時の経験談などを、ユーモアを交え話され、「私は1日に10回の食事をします。つまりそれだけ付き合いがあって、多忙です。政治家はそうでなくてはなりません」と仰った。



▲日華議員が取り囲む
日本は1895年以来50年間 ─ つまり終戦まで統治してきた。しかしそれは、植民地化ではなく、むしろ、当時の日本政府は、日本の国土として統治したのだと思える。その事は、この市役所、そして隣の、戦前は台中州庁だった政府建物。さらには台中駅はもちろん、鉄道、学校など、相当高度な技術を伴うハード・ソフトを、日本本土と同じように投入していることからも伺い知れる。だから、西洋のいう植民地政策とはかなり違っていたのではないかと、現地で思えてならなかった。だが、それを市長に質問する勇気は、なかった…

ともあれ、台湾の人々と韓国の人々の対日感情に大差はあるやなしや、分からぬとはいえ、両国とも、日本を加害者と捉えているかもしれない。にも関わらず、日本統治時代に建てられた韓国ソウルの建物は、嫌な思い出として消滅させられたが、台中市ではいずれの建物も逆に文化財として保護され、今も両国の架け橋になっている。これを台湾政府のしたたかさと取るか、はたまたおおらかさと取るべきか。いずれにしても、仲良くするためには、そうした建物が大切にされているのも、良い事ではなかろうか。


▲サイレンの音に、ビックリ
ところで、このブログ記事を事務所で書き、ペンを置こうとしたら、消防車がサイレンを鳴らしながら走ってきて、事務所の前で停まった。「火事だ」と思って飛び出したら、20m北側の文化住宅の2階がボヤで、すぐに消えたらしい。ケガ人もなかったそうで、良かった。年末はお互いに気を付けたいものだ。消防局から消防車が5台は来ていた。人々を守るべく日頃から管理され態勢が整っている証であり、ありがたく思った。

…台中の地震については、また明日。