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2023年 04月 28日 金曜日

今、私にとっては立派すぎる市役所1号館25階の議長室で、心静かにこのブログを書いている。この議長室にいられるのも… あとわずか。今日、4月27日と明日の二日のみとなった。そして同じ日に、私の議員資格も失われる。色々な思い出があるが、これから先に夢を持とうと決心している。

昨晩、須磨区の安達和彦議員と食事を共にした。彼は、まことに残念なことだが、この春の選挙で落選した。だが、それでも以前となにも変わらぬ様子だった。温厚な人柄に秘めた、再起へ向かうバネのような強い根性を感じ、胸が熱くなり、嬉しかった。会派の中からはもちろん、市役所内部や市民、産業界からも、安達復活を期待する声がある。私も、「微力をささげます」と、彼の手を握った。

しばらくブログを更新しなかったが、その間、大変な忙しさだった。芦屋市の市長選挙で高島崚輔氏を応援するため、芦屋の知人の方たちにお願いの声をかけていた。どれほどお力になれたかは不明だが、お陰様で当選して下さった。彼は、きっといい市長になると確信している。

候補の集会にも、個人的に参加した。開票の4月23日には、なんと午後8時1分で当確が出た。お祝いのスピーチを山田代議士と私に求められて、私は「芦屋市民は、良い市長を持って幸せです。ただ市長も議員も、いうなれば市民の道具ですから、いい道具を長く使って、良い街にするのが市民の知恵です。これからも、神戸市と仲良くやりましょう」と、二分ほどのスピーチを捧げた。

ただ、その後、私のつたない経験で、二ヶ月に一回は住民集会を、時間を制限して行ってはどうか等、手紙でご提案申し上げた。心配なのは、議会との関係を良好に構築できるか否かだが、市民の心をつかむ事が議会対策の一番だとも付け加えた。

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26日には、坊池副議長と共に、文化庁京都庁舎を視察した。京都市会の田中明秀議長の計らいで実現したのだが、私が以前の議長会の会合や関西広域連合議会で、「ずいぶんと文化庁の京都移転について議論を重ねたが、その後どうなっているのか知りたい」と申し上げたのが、切っ掛けとなった。          

現在、250人の文化庁職員が定着しているそうだ。京都に縁があるか、近い方が主に選ばれているらしいし、東京との連携もテレワークで、上手く行っているらしい。この庁舎は、昭和3年建築の、日本最古の警察本部庁舎として知られた、京都府警の旧本部本館をリニューアル改修したもので、いかにも文化庁にふさわしい建物だった。けれど、未だ内部の工事は進行中で、各部署の書類等も搬入中だという状況だった。
ともあれ、私には、議論を重ねてきて良かったと思えた。本音を言えば、神戸には呼び込める官庁がないので、そのまま丸ごと、副首都計画を神戸にして下さいとでも叫んでみたかったが。

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同じく26日の午後からは、神戸レディースフットボールセンターのアドバイザーに、あの永島昭浩氏が就任して下さる事になった、その発表記者会見があった。その場に久元市長と、議長としての私に、INAC神戸レオネッサを応援する議連会長の平井真千子議員も同席した。

「あの永島昭浩氏」と表記したのは、もちろん著名な方だというのもあるが、私にとって旧知の方だからだ。御影でボールを蹴っていた時代から有名で、何回か会食した。本当にいい方で、元気で礼儀正しく、真のスポーツマンである上に、ハンサムなのだ。

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同席された平井議員も「私が神戸大学の学生時代、六甲のドーナツ店でアルバイトをしていた時に、永島氏が店に入ってこられたので嬉しくて、握手をして頂いた」と語って、場が盛り上がった。

私は「日本の女子サッカーは神戸が発祥の地であるだけに、女子専用のスタジアムを作るべく長年努力してきました。目標は、神戸で女子サッカーの選手を育てる事と、女子サッカーの甲子園にする事です。お陰様で、当局も大変前向きに検討してくれています」と話した。すると「スタジアムの場所は、どの辺りで考えられていますか」と質問があったので「六甲アイランドです」と答えると、「いいですねー」とニッコリして下さった。市長も交えてなごやかに親交を深め、記念撮影を行った。本当にいいアドバイザーを、神戸市は得たと思う。

その帰路の車中で、米歌手、ハリー・ベラフォンテさんが96歳で他界したとの訃報を知った。私が若い頃に好きだった、名曲「バナナ・ボート」や「マティルダ」を歌われていた、近年では人権活動家としても有名だった方だ。新婚旅行でアメリカに行った時、ラスベガスで公演中だったベラフォンテさんのステージを見に行ったことがあった。観客席から「日本から来ました」と書いた紙を見せると、公演後に伝言をもらって、楽屋で対面。実に素晴らしい方だったけれど、何を語ったかもうほぼ覚えていない。けれど、笑いながら「決してバクチはするな」と言われてお別れしたのは、記憶にある。その後彼は、人生をかけて黒人の地位向上を目指す公民権運動に注力した。また、世界中の子供の支援にも尽力された。本当に立派な方の訃報に、私は一人で泣くしかなかった。

さて、このブログもそろそろ終わりに近づいている。こうしてブログを書くために、陰で助けて下さった方々がいる。私の子供のような走り書きの字を読んで清書して下さる方たち。誰よりも、分かりやすくなるように文章に手を入れて下さったり、失礼のないようにアドバイスを頂いたりして、このブログを続ける事が出来た。

私は昔から朝日新聞の『天声人語』などの各紙のコラムが好きで、あの雰囲気を目指すべく意気がってやってきたが、皆さんに助けられながら続けられた事を、心から、本当に心から感謝したい。

これからは、SNSというもので発信できるらしい。ベラフォンテさんのように信念の中で一生が全うできるのかと考えると、重荷となるかもしれないが、逆に、夢もある。次は甲南大学の学生になって、勉強して、社会に役立つ人生をつつましくやっていきたい、と思いつつ筆をおく。

本当に長い間、お読みいただいてありがとうございました。
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