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2013年 12月 20日 金曜日

最後に、「今後やりたいことは?」と聞くと、「福祉関係でお手伝いをしたい」と言う答えが返ってきた。元市長、矢田立郎は、最後まで矢田立郎だった。

諸々の質問への答えを… 前回のブログを読み、興味を持ってお待ちの方が、かなりおられるだろう。実は、2〜3人の方から電話を頂いたほどだった。

先ず、①の「市長は楽しかったですか」について。「かつて宮崎市長は、『市長は3期目が一番楽しい』と言っていたが、矢田市長はいかがですか」と尋ねたのだ。氏は一言、「私は、そんなことは無かった」。別に、楽しい事は無かったようだ。

実は、矢田市長は自ら市長を望んだ訳ではなく、皆でお願いした結果、その任に就かれた。その時も、矢田市長と語りあった。故 吉本市議が代表してお願いし、最後に「やると決めたらやります」と、引き受けられたのだ。以来12年、実に茨の道だっただろう。夢のあることは、無かった。震災復興に財政改革と、良くやってくださった。氏にとって、私の質問は失礼だったかも知れない。

②の「何故、自分の時代に市の財政負担を無くそうとしたのか」には、氏は、「次の人に同じ苦しみを味わって欲しくはなかった。私は早くから片親で育ち、いい親戚の方に育てて頂いた。その方々から、人様に迷惑を掛けてはならないと教えられ、私もそう思って来た」と答えられた。つまり、氏は「自分のミスで、次の人に負担を掛けてはならない。むしろ、前任者による負を少しでも消したい」と思ったのだろう。でなければ、あえて最後の時期に、あんな思い切った財政改革はできない。名古屋市の市長が、好例だ。同じ額の借金がありながら、減っていない。お陰で神戸は、夕張市の次は神戸市と揶揄されたあの財政破綻から甦って、安定度は政令市の中位ほどになった。

次に、③。氏の、赤穂浪士47士の末弟としての意識については、「別に意識したことは無い」そうだ。「確かに、当時としては立派なことをして下さったという誇りはあるが、だから自分はどうあらねばならないとか、特別意識はしていない。私は、その件に触れたことは無かった」と言う。確かに、議会の会議中も議論の中でも、「私は、赤穂浪士の末弟ですから」といったセリフは皆無だった。
市長選挙でも、それは使われなかった。立派なものだ。市会議員の選挙では、5児の母とか2児の母が売りものになるのに、そんなことは選挙に関係が無いと思われたのだろうか … きっと、後援会にも使うなと指示を出しておられただろう。爽やかで、いいではないかと思った。

そして、私が最もこだわった、質問④の、矢田元市長の個人賠償問題。私は「冷たい人だと思った」とまで言ったのだが、矢田市長は「それは失礼しました。そんな気ではなかったのですが…」と、あっさり謝罪された。そして「あの裁判は、勝つと信じていた。勝たなければ、日本の司法がおかしくなってしまうと思っていたので…」と仰る。しかし、私は氏が相当気にしておられた上に、周りからも、色々と難しかったと聞いていた。それだけに、氏はきっとホッとしていたのだと思う。お礼を言わなかったのは、議会軽視やマナーといった問題ではなく、単なるうっかり。多分、氏は言ったつもりだったか、今でも「言ったのに…」と、思っていたかもしれない程度のことだったのだろう。それを私は「冷たい人」と受け止めていたのだろうか…。人の間の誤解は、こうして起こるのかも知れない。

最後に、「生まれ変わったら、また役人になりますか?」と尋ねたら、「いやいや」と首を横に振られた。「私はもともと役人になる気持ちは無く、公認会計士を目指して勉強しようとしていた。そうしたら、『やはり、定職についてその上で勉強をしたら』という親戚の薦めもあって、神戸市役所を受験して合格した」そうだ。以来、市役所で約54年。でも。いい人生だったろうと思う。楽しくはなかっただろうけれど、氏の信念は、通じた。神戸市にとっては、我慢の時期の市長として、うってつけだった。本当に本当に、「御苦労様でした」。