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2015年 08月 26日 水曜日

今日、神戸港がここに至った背景には、多くの偉大な人物による多くの物事がある… そのお陰だと私は思っている。

写真 資料を手に
▲副読本を手に竹綱氏と
森垣亀一郎氏も、その一人。私が事務所で仕事をしていた、8月25日。久しぶりに、友人の竹綱昌弘氏が顔を出して下さったのだが、その時の話で、「安井議員、御影の森垣胃腸科外科のドクターを知っていますか?」と聞かれた。「あぁ、知ってるよ」と答えると、「森垣ドクターのおじいさんが神戸港をつくった人です」と言って、神戸市の教科書…恐らく副読本のコピーだと思うが、それを見せて下さった。

読んでみると、森垣さんの祖父、森垣亀一郎氏は明治7年3月22日兵庫県豊岡生まれ。わずか5才で父を亡くされ、母親が必死で彼を育てた。14才の時に豊岡から神戸まで歩いて来て、船に乗って横浜に着く。東京大学に合格し、土木科に進学。

写真
▲ 森垣亀一郎氏
1898(明治31)年に卒業すると、技手として、当時の大阪市築港事務所に入り、翌年、技師に。その後、大阪港の大桟橋の建設に腕をふるい、完成後は備前・犬島に赴任していた。神戸港に赴任するのは、1906(明治39)年。すぐにオランダのロッテルダムに派遣されると、2年前に実施されたばかりだった世界初の、鉄筋コンクリートでの岸壁工事とコンクリートケーソンの据付工法を学んだ。帰国後、神戸港の大修築に携わる。大正12年には神戸市港湾部長・土木部長となり、日本初のコンクリートケーソンという当時最先端の技術で水深9mの岸壁を成功させたのだが、その間、失敗を繰り返し、大変苦労されたという。

その技術は、阪神電車の地下化や、神戸の中央市場など、大阪や日本各地で活かされ、森垣氏の名は「神戸の森垣博士」として、全国に知れ渡った。こうして、近代国家の基礎を築かれた森垣博士だが、私が立派だと感じ入ったのは、多くの後輩を育てておられる事。その技術は、最近の明石海峡大橋でも活かされたそうだ。

実は、私が森垣博士をそれほどに思うのは、私の祖父に通じるからだ。明治に豊岡の農家の、四人兄弟の次男として生まれたが、長男を残して3人は、口減らしに神戸と京都に出され、やがて、神戸で料理店を成功させた。そのお陰で、今の私がある。森垣博士とは雲泥の差だけれど、苦労した人ほど、他の人々や社会への奉仕精神がある、と感じている。なにしろ私の祖父も、無類のお人よしだったのだ…。

きっと、あの中国天津の港でも、鳥居局長によって森垣博士から受け継がれた技術が活かされた事だろう。あと500日に迫った神戸開港150周年記念には、こうした先人の方々を顕彰する事を忘れてはならない。市民あげてのお祝いも良いが、先人の苦労を知り、感謝する事も、神戸の、市民と議会人の義務だと思うのである。