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2009年 07月 16日 木曜日

一昨夜も会った速水社長と二夜連続。大阪宗右衛門町にある彼の店「まんぷく市場」で、スッポン料理を囲んだ。大日本ドケチ教教祖吉本晴彦さんと、俳優の大村崑さんを交え、4人で楽しい会食。大村崑さん77歳、吉本晴彦さん86歳。皆さん若く、お元気だ。

▲皆で乾杯

大村崑さんとは15年ぶり、吉本晴彦さんとは6年ぶり。再会を4人で喜びあった。

特に、吉本晴彦さんとは永いお付き合いで、私の娘の結婚式にも出て頂いたほど。決してえらぶらず、いつもニコニコしておられる吉本さんとの出会いは、確か岡本の梅林公園を造る時。運動に共に力を注いだ縁で、親しくなった。

ある企業がマンションにする予定地だった土地を神戸市に買わせて、公園にしたのだ。その際、二人でよく市役所に行って直談判した。当時、吉本さんは飛ぶ鳥を落とす勢いでおられたこともあり、記者クラブである記者から「マンション建設に反対しておいて、この土地を貴方が買うのと違うの」と聞かれ、「なるほどそんな手もありますな〜!」と言って笑いを取っておられたのを覚えている。吉本さんは後で「あれを下衆の勘ぐりと言う。わしがそんな見えみえの事をするか」と笑って仰った。私は、これほどの方をマンション反対運動に担ぎ出して申し訳ないとすら思っていたのだが、逆に私をかって、後には後援会の副会長にもなって下さった。氏の講演料は50万円を下らないが、私の依頼は無料だった。

ドケチに必要な資格は、ユーモアを持ち合わせている事。それは例えば、やられた後でイヤミ無く「ヤラレタ!」と言って笑える事である。ドケチとシブチンの違いは、シブチンはお金を出さなくてはならない時に出さない人 ─ これは人に嫌われる。だから、楽しみながらやるのがドケチであるとお教え下さった。私がズバリ「ドケチ教の跡取りは決まりましたか」と聞くと「なかなかいいのがいない。私一代で終わりだよ、ドケチだから」と言って、笑われた。私は、吉本さんの前に座ってお世話のまねごとをしたが、食べるわ、食べるわ。私の倍は召し上がっただろう。御歳、86歳である。うれしかった。こんな紳士が、元気で居て下さる。今も五千歩歩くのを心掛けていると仰る吉本さん、健康を考え、10時15分には退席された。

▲本当にお元気!

一方の大村崑さんもむろん、お若い。島田紳助さんから長島茂雄さんやみのもんたさん等、広いお付き合いを話題に、楽しませてくださった。島田紳助さんは頭の良い人で礼儀正しく、よく稼いでいるいい男だと、褒めておられた。

みのもんたさんが来阪されると、大村崑さんを呼び出してはクラブを何軒もはしごされるそうだ。店のテーブルを巡って話し、店中を彼のファンにするほど魅力ある男だそうだ。私が「みのもんたさんはあまり好きではないが、島田紳助さんは好きだ」と言うと「人それぞれだから」と大村さん。自らは、決して人の悪口を言わない。

そんな大村さんの口から「お笑いの仲間のアチャコ(花菱アチャコさん)・バンジュン(伴淳三郎さん)・ささやん・雁之助(芦屋雁之助さん)は皆死んでしまった」と、ふと言葉が漏れた。「皆、ムチャした人生だったから…。私は酒を飲まないし(ビールをコップに1杯だけ)、タバコも40年前に辞めた。19歳の時に片肺になっているので、健康に気を付けている。体は大切だ」と、しみじみ。「家内が1年のうち3ヶ月間もイタリアに歌の勉強に行っている」と言い出すと、堰を切ったように、話の中に家内という言葉が幾度も出てきだした。「仲がおよろしいんですね」と言うと「ウン」と、子供のような笑顔で頷き返された。

そんな大村さんの話の中でも我が意を得たのは「今の笑いは下品で心が無い」と切り捨てられたときだ。
「チャップリンにしても、藤山寛美にしても、エンタツ-アチャコにしても、昔の笑いには、愛と人間の情愛が底辺にあって、笑いの後にうなずくものがあった」
と。

私もそう思う。大村さんは「笑いこそが人生で、笑いのない人間は成功しない」とも仰った。ここに多くは書けないが、いろいろな事を教わった。いつか機会があればもっと逸話をご紹介したいと思う。会が解散するまで3時間半、76歳の大村さんは笑いと納得で我々を圧倒し尽くされた。なんと、まぁ…「参りました」。