午前3時 ─ 午前様で帰宅したのは、12月15日の選挙開票の翌日未明。橋本 健議員や吉田基毅議員の帰宅はもっと遅く、午前4時~5時になっただろう。
▲ 当選の決まった直後に
翌日からは、お世話になった方々に、お礼の電話なり、ご挨拶にうかがうなどした。ある有力な婦人会長は
「今でこそ安井さんに言いますが、2年間で井坂さんは3回私の家に来て、秘書さんは二度、『何か、困ったことはありませんか』と尋ねておいででした」と仰る。ある御影の自治会長さんは
「盛山さんは、来た事がない。13日の御影小学校の安井さんの会で、同じ御影小学校で2年ぶりに会っただけ。井坂さんは、私の家に2回来てくれました。投票は、盛山さんにしましたが…」と言われた。また、ある中小企業の社長さんには
「アイラブKOBEもいいけど、一年に何回金集めるんや。いい加減にして欲しいといってくれ。アイラブKOBEが選挙活動と勘違いしているのか」とご立腹でおられたし、ある人からは
「会に呼んで、来られても15分で帰って行く。呼んだ立場が無い」等、叱られ過ぎて、辛かった。皆さん、私にだからおっしゃって下さると思うし、とても有難かったけれど、「叱られるうちは、まだ捨てられていないのだ」と、この三日間、自らを慰め通しだった。私は、どなたのお叱りにも、反論できなかった。実は、私も同じ思いだったのだ。
1年半前、盛山代議士が法務大臣政務官の頃のこと。あまりにも地域の人々から「顔が見えない」との苦情が続いたので、直接本人と会って「少しは帰って来て、地域廻りをして下さい」と、笑顔で告げた。彼は「そうしたくても、大臣がいない時は私がいないといけない事になっています。国家に何があるか分かりませんから」と言う。
私が「なるほど。しかし私も、石井一先生や砂田先生を応援した事がある。石井一も砂田さんも、大臣の政務次官をされましたが、もっと帰ってきて、市民と接触していました。貴方だけは違うのですか」と聞くと、「その方々は、その方々です。私は違うんです」と冷たく答えられた。
その時、私は考え方を変えた。私は、この人の為に応援をするというより、自民党の党人として、国家の為に、神戸の為に応援しよう、と。
石井一さんは色々とあったが、人に愛されるところがあった。東京から帰って来て、石井さんのご自宅で鍋を囲んで、東京の話しを聞かせてもらい、口角泡を飛ばして論じ合った。一時は、この人の為に手足になりたいと思った事すらもあった。人とは、そういうものだ。
▲ 決起集会で皆様へお願い
そもそも、選挙は足なのである。インターネットの時代になろうとも、「会う事が一番」は、どの時代になっても変わらぬ、選挙戦の基本だということも、今回あらためて思い知った。それは、あれほどインターネットを駆使している井坂氏の戦いぶりが、良く示している。
びっくりしたのは、井坂氏の秘書の名刺。見ると、井坂代議士の顔写真が大きく表示されていて、秘書の名前は脇に、そっと小さく記されていたのだ。いかに選挙戦を大切にしているかだと、感心した。私は、責任者としてもっといろいろと、気を配るべきだった。盛山代議士にも世間様にも、お詫びしなくてはならない。
だが、今でも私は、市民の為に立派な仕事をして行けば、市民の皆さんは、いつか分かって下さると思い、そう信じている。もし、この思いが続かなければ、社会を変える事は出来ない。本山駅のバリアフリーも、御影のバレンタイン広場も、また、東部市場の整備も、御影公会堂も、図書館も御影クラッセも、だんじり広場も公園の時計も、一票には関係ないと分かった。しかし、それをやらなければ、税金で食べさせてもらっている意味がない。
きっと盛山さんも同じ思いであり、その思いは、もっと強いのかもしれない。これは、与党である限りの宿命だとも言えるだろう。
私は、皆様から頂いたお言葉を胸において、盛山正仁という代議士を皆で研いで、原石から日本一のダイヤモンドに仕上げる ─ それが神戸の為になると、信じている。もちろん、それには皆様の助けが絶対に欠かせない。今は、本当に献身的で誠実な橋本 健市議、吉田基毅市議、長男の健吾さんを始めとして、素晴らしい研き手がいる。だから、今のうちに、ダイヤモンドになって欲しいと願ってやまないのだ。
▲ 懸命に支援してくれた地方議員仲間と、決起集会で最後のお願い