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2014年 04月 15日 火曜日

1938年、オリンピック選挙に選出されるも、太平洋戦争のため中止 ─ いわば、戦争の犠牲者なのだ。しかし、スケートを続けた… 彼女。アイススケートの為に生き、アイススケートの為に人生を捧げられ、昨年12月3日、94歳で他界された、フィギュアスケートコーチ兼国際スケート連盟公式審判員、日本スケート連盟審判部長だった、上野衣子先生だ。

そんな先生を愛し、指導を受けた関係者役350人が参列した「上野衣子先生お別れの会」が、去る4月13日 日曜日14時から、ポートピアホテルで行われた。会場でお会いした方々は皆さん素晴らしく、価値のある2時間だった。

先生を偲ぶご挨拶の中で、新開地が華やかりし頃にあった、聚楽館の話が出た。敗戦で打ち砕かれた悲惨な生活の中で、米国の軍人が集うキャバレー、そして、嬢屋街の福原 … その中で光り輝いていたビルが、聚楽館だった。私は、そのすぐ近くで育ち、子供の頃は「ええとこええとこしゅうらくかん」と、憧れたものだった。そんな聚楽館にスケートリンクができたのが、私が小学4年生の時。当時、上野衣子先生はその聚楽館で練習しておられたそうだ。

私とのご縁は、「神戸市にスケートリンクを造って欲しい」というご要望で、市長や知事と会っての陳情の繰り返しをなさっていたからだから、ある意味、戦友でもあった。1980年レークプラシッドオリンピックでは審判員をつとめられたが、一方で、常に後進のため、底辺の拡大のために、精力的に活動してこられたのである。

ご挨拶の中で私は、
「人の価値を聞かれ、それがお金持ちたりようや、地位や屋敷の広さではなく、いかに人々の為に尽くし、他の人々を愛し、自分の仲間の為に尽くし、後輩たちの為に道をつくり、残せるのかだとすれば、上野衣子さん程の人はいない。まさに、その人生は、アイススケートとその業界に捧げ尽くされた。もし、今、アイススケートの隆盛を語るなら、上野衣子先生を忘れてはならない」
と申し上げ、献杯には「決して忘れない。そして、前進しよう」と思いを込めた。

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▲ 鍵田祐子さんのお父上と
良い会だった。特に、ご準備下さった鍵田祐子さんの母上、鍵田泰子さんの気配りは、誰もが私に話して下さるほど見事。主催者の今川隆氏によれば「鍵田さんは、上野衣子先生の遺影に飾る花のピンクの色について『上野衣子先生の愛したピンクは、そのピンクではない』と、こだわっておられたほど」だそうだ。そんな気配りは、上野先生の指導の賜だった。

上野先生の心は、愛娘で、全日本チャンピオンにもなられた平松純子さんにも受け継がれ、今や、日本のアイススケートをリードして下さっている。テレビのスケート競技解説などで、ご高名をご存じの方もおありだろう。ありがたい事である。今日現役の羽生結弦選手や浅田真央選手、そしてもちろん、明日を目指して銀盤で努力している皆さんには、こういった先人がおられた事を覚えて、忘れないでいただけたら、と思う。