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2014年 02月 28日 金曜日

毎年二月の末には、故・宮崎辰雄元市長と、当時反対運動を起こされた方々に、ありがとうと感謝の気持ちが湧いてくる。それは… 東灘区岡本の、恒例「梅まつり」が行われるから。今年は、23日。ちょっと寒いけれども、晴天の公園には、多くの観梅客が訪れた。

甲南大学の北側の辺りでも、地元のボランティアの方々(代表 横山雅一氏)があれこれと工夫して、観梅客をもてなしておられた。とりわけ、今や名物と言って良い程になったのが、「とりうめ」。19年続いている、沢の鶴の西村隆治社長自らブレンドされた甘酒で、本当においしい。来て下さったほぼ全員に当たるとあって、大人気。横山代表は地域全体参加型イベントをと考え、様々な方々の出品販売を実現されている、その楽しみも加わっての賑わいだ。
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↑写真 左から 広岡 前会長・ 安井・西村 沢の鶴社長・横山 現会長


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昨年は出張で欠けたけれど、実は、私も18年続けて、毎年約1時間ほど、この梅林公園の語り部をしている。この、18年間の語り部の中で、1度も自分の名前を言わなかったのが、私の誇り。それは、この場を、自分のPRの場にしたくないからであり、この公園を作った一人として、公園を本当に愛しているからだ。

1981(昭和56)年頃、この公園の敷地の3軒隣りに暮らしておいでだった上村きん子さんから、「安井さん、こんな静かな、しかも文教地区に、大手マンション業者がマンションを建てるそうです。絶対に反対です。潰して欲しい」と頼まれた。彼女は、私が甲南大学の学連の委員長をしていた当時に文教地区指定運動を起こされた、頼もしい若き奥様であった。

早速、署名活動を起こし、何回か市役所に掛け合い、委員会でも発言を繰り返した。当時の神戸市長は、故・宮崎辰雄。財政が黒字だった事も幸いし、敷地を公園として買収できた。今とは違って、市には強力な力があり、ここで逆らうとマンション業者も次に影響すると考えた、というような背景も、あったのかも知れない。

公園を設計したのは、赤松勉係長(当時)。宮崎市長が、若い職員を鍛える為に大きな仕事をさせたのは、偉かった。彼が熱血漢よろしく「良い公園にする為に、研究して、価値ある梅の木を集めていく」と、方針を語ってくれたのを、今でも思い出す。

私は同時に、二楽園の奥谷惟之さん(今年2月15日死去)と組んで、岡本の方々による梅一輪運動を起こした。それは、岡本の住民が庭に、学校に、マンションのベランダに…そこらじゅうで梅を植えて、梅で溢れる町にする。そうすればやがて、その梅を見ようと、多くの人々が岡本に来てくださるだろう、という運動だった。実は、私はこれを、留学したロサンゼルスのローズパレードの思い出から思いついた。毎年元旦、全米の大学のアメリカンフットボールの覇者を決める決戦、ローズボウルが行われる。私のいたUSCもよく出ていたのだが、その時、パサディナの住民はみな、バラを植えて人々を歓迎していた、それに倣ったのだ。

残念ながら、この梅一輪運動は途中で収縮してしまったけれども、今日、横山会長とそのボランティアの方々が違った形で地域を愛し、岡本の文化を形成して下さっているのに、心から敬意を表したい。

かつて、「梅は岡本、桜は吉野。みかん紀の国、栗丹波」と唄って、地元の人が「どんなもんだい」と自慢した、岡本の梅。明治30年頃には、旧国鉄が臨時停車場を作る程だった。そんな、梅の地、岡本の人々の息づかいが、今日なお、聞こえている ─ それがとても嬉しい、早春の楽しいひと時だった。
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