しかし、矢田氏の隣席にいると、あれこれと思い出され、むずむず。そこで私は、たまらず質問を氏にぶつけだした。
- 市長は楽しかったか?
- 何故、自分の代で、難しい住宅供給公社や舞子ビラ、ベイシャトル等について、解散・整理しようと決心したのか?
- 赤穂浪士 四十七士の末弟としての気負いとか、プレッシャーとか、使命感といったものについて、常に意識した人生だったか (氏は赤穂義士 矢田五郎右衛門の御子孫)
そして、質問は、忘れもしない私が議長時代の事に。矢田前市長が外郭団体への給与支給問題で、個人的に380億円を支払う事という最高裁判決があった。その際、私や平野昌司議員は「市長が一円も懐に入れず、単なる手続きミスであったのに、あの判決は経済的な死刑判決だ」と仲間の議員に訴えて、神戸議会として市長が支払うことはないと議決したのだった。
しかし、今度はその議決が無効であるとの訴えがあった。最高裁の判決が下るその当日、私は議長室でまんじりともせず、判決を待った。もし、勝って神戸市会の決議が認められたら、西部劇のラストシーンのごとく、黙って静かに帰ろうと思っていた。負ければ、記者会見で責任を問われると覚悟していた。夜8時30分を過ぎて、当局から議会側の勝利の知らせがあって、私は黙って恰好良く帰路についた。矢田市長からお礼の電話か、議会の勝利について何か言葉があるかと思っていたが、何もなかった。
二・三日後、須磨区役所のオープン式典があった。別室で市長と二人きりになった時、私はたまらず「市長、よかったですね」と申し上げた。元市長は「いやいや、大変でした」と一言、答えただけだった。私は、「この人は、本当に冷たい人だ。こんなに我々が苦労し、大きなリスクを負ったのに、議会の皆様のお陰とか、議会に迷惑をかけて…と言ってくれない」と、実に無念だった。そこで、その時の思いも、彼にぶつけてみた。
さらに、須磨海岸のバーベキュー禁止の施策でのこともあった。私と須磨区のある若い議員は、バーベキューは反対だが、国立公園でもあり、撤廃させるには、条件を作ってやるべきだとした。それにより、議会で深い議論ができるし、他都市でもそうしているのだ。だから、そう進言した。ところが、市長は聞かず、行政指導のような形で禁止した。
その若い議員は、たまらず本会議場で市長に質したが、変わらなかった。それを見た平野昌司議員が市長に「貴方は、頑固になったねぇ…」と、注意してくれた。良い議員である。私はその時、「これは、市長交代の時期だ」と感じたので、それについても聞いてみたのだった。
続きはまた、後日。