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2013年 12月 13日 金曜日

彼は、いつも青春真っ只中だった。彼には、どこか人に好かれる、明るさ…あるいは幼稚さがあって… すぐに仲良しになれる特技があった。その彼とは、ジャーナリストの大林高士君。

共通の友人である郷田忠佑さんと、ふと偶然彼の話題になり、電話したが不通。そこで、甲南大学自動車の仲間である大阪市会議員の新田孝君に電話したところ、彼が昨年6月16日に他界したことが分かったのだ。私は、携帯を握ったまま、ただ黙って涙が止まらなかった。

彼と私との出会いは、甲南大学の自動車部時代に遡る。二人とも、運動神経はゼロだが、口と文章は、少々いけて、何故か気が合ったのだ。

彼は、全国高等学校弁論大会で「安保のデモの中で」という題目で全国優勝した実績があった。私も、県立兵庫高校の頃は弁論部にいて、自治会長をしていたといった背景もあり、自動車部で気の合う友に。私は、自動車部を足がかりに甲南大学の自治会長になり、彼は自動車部で主に企画をやり、車がそれほど普及していない時代だったが、台湾の遠征を企画。日本の大学で初めて、台湾一周をやってのけた。彼が後にその遠征を綴った小冊には、悪路の泥沼にはまった車を押した経験を、「アメリカの占領下の『オキナワ』が『沖縄』になる日まで、押し続ける」と書いていた。そんな、感受性豊かな男だった。

そんな彼だから、周りからは色々言われても、全然気にしていなかった。我々は、二人きりの世界を持っていたのかも知れない。一緒にいると、とにかく楽しい同志だった。そんな大学生時代以後、我々は、人生の様々な場面で顔を合わせることになった。


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▲ 被災者と避難所で語る大林
本当のジャーナリストだった、彼。思い出は、語り尽くせぬほどある。
阪神淡路大震災の時には、東京から飛んできて、我が家に泊まって取材。彼はボランティアを美化せず、罪もない人々の命を救えなかった行政を批判した。彼は天災とせず、人災と定義していた。この点、私も同じスタンスでいる。

その後、彼は平成9年須磨区で発生した連続児童殺傷事件(別名酒鬼薔薇聖斗事件)でも、我が家に泊まって取材を続けたのだが、その時に、先の郷田氏と気が合って、三宮で飲み明かしたのだった。郷田氏も、彼の死去を聞いて、しんみりとなってしまった。

あの時、私達は口角泡を飛ばして語り合った。とりわけ、1987年11月29日の、大韓航空機爆破テロ事件の北朝鮮工作員、金賢姫(キム・ヒョンヒ)の件は思い出深い。

彼は北朝鮮に入国し、何らかの方法で金賢姫の生家をつきとめ、写真を撮った。だが、北朝鮮の官憲に見つかり、拘束されてしまう。その瞬間、「自分の身はどうなっても、このフィルムだけは世に出したい」と思った彼は、隣にいるA社の日本人ジャーナリストに頼んだが、断られた。そこで、それならと渡したアメリカのジャーナリストが、写真を世に出してくれた。その上、「もし、Mr. OBAYASHIに何か危害が加えられたなら、世界のメディアが立ち上がる」と、北朝鮮政府に抗議し、助けられたのだというのである。

以来、彼は日本のジャーナリストをあまり信じていなかった。その後、その金賢姫に幾度かインタビューするうちに、彼は金賢姫を好きになり、「彼女も俺に気がある。絶対だ」と、あの大声で言い張った。私は、腹を抱えて笑った。

あのオウム事件では、麻原彰晃にインタビューし、大スクープになった。また、平成12年3月24日に埼玉県本庄で発生した保険金殺人疑惑事件では、八木茂(当時50歳)と3人の愛人が保険金目当てで殺人を行ったといった疑惑が次々に浮上したが、主犯の八木 茂に気に入られて、彼を指名してインタビューに応じたという一幕もあった。

そんな彼は、一方、生活面ではどちらかと言えば、派手。実は、何回か離婚している。最後は、確か新潟だかに農家を買って、そこで物を書いたり、奥様と子供と楽しい日を過ごしていると言っていた。これは後で聞いたことだが、その奥様とも別れられたそうだ。私が気になるのは、あの膨大な取材ノートや、様々な資料が何処に行ったか、だ。まさか、その農家に今も放置されているのではないだろうなぁ…。

事情が許せば、郷田さんと共に、彼の夢だったその農家の片隅に立って、思い切り彼を偲んでみたいと思っている。本当に、もう一度会って語り合いたい、大好きな男だった。合掌。
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▲ 避難所で日没を睨む大林。彼は、あの震災を人災と定義していた