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2013年 11月 26日 火曜日

本山の賢さは、役人と議員を使って駅舎を造ったこと。私は、これを38年前の公約にあげて、毎年機会ある度に関係方面に訴えてきた。特に、最終の5年間の調整には苦労した。それは… 永らく待ちかねた、バリアフリー化されて、自由通路・橋上駅舎となったJR摂津本山駅。供用開始の11月24日は、記念すべき日となった。

当初は、「旧駅舎のままでバリアフリー化して欲しい」との要望だったのだが、これは難しく、一部が面影程度に残すことに。
また、商店が駅舎ビルに張り付く件については、地元商店街がよく理解を示してくださった。
橋上の自由通路のあり方と、維持管理の件もあった。通路であるから市の所有になっていたのだが、協議の結果、JR西日本の施設の一部として渡し、維持管理ともJR西日本お願いすることになった。この件は、私も承知した。
さらに、地元との協議の中で、一部でも地元の人々との絆として、共用スペースの提供をとの求めもあった。これは、JR西日本の英断でOKが出て、後の話がスムーズに運んだ。
…と、ここまではバリアフリー協議会の四方田会長・二宮さん・井村さん・有田さん等、多くの方々が、暑い日も寒い日も、3万人もの署名を集めた活動は言うに及ばず、JR西日本への交渉の為に何回も足を運んでは、交渉の場を作り、前述の件について、ほゞ決定した。その間、東灘議員団もいろいろとアドバイスをするなど、力を発揮してきた。

やがて、バリアフリー化が決定し、およその工事の工程が発表された。この時点で、私の事務所を訪れた四方田会長は
「ホッとしました。これでバリアフリー協議会は解散します。後をよろしくお願いします」

と言われた。私は
「それはいけない、まだまだ仕事があり、完全に出来上がるまで見守る義務がある」
と慰留した。しかし、彼はきかなかった。クラッシック音楽を好み、真っ直ぐに生きて来た彼は、いろいろ世間の声が気になるタイプであり、ここまで来るのにはさぞや気苦労があったのだろうと察したが、私は、戦場で戦友を失った気持ちだった。

特に、地元の山本婦人会長の存在は、大きかった。表に出ないが、平成10年から市長にバリアフリー化を訴え続け、力を発揮してこられていた。

そこに、問題発生。一般道から橋上の自由通路への上下エスカレーターがないではないか、と。これは私も同感で、このままでは、欠陥商品だと感じていたのだ。しかし実は、バリアフリー化するにあたってはある程度法律であれこれ決まっているが、このエスカレーターについては、は全くの自由裁量。さらには、新しい組織でやり上げる必要があった。

そこで、地元の有力者の小原さん ─ この方も、もともとバリアフリー化に取り組んでくださっていた ─ そして、山本婦人会長や、美しい町づくり協議会の橋谷さん等を中心に、バリアフリー協議会を再稼働することになった。一部、前の組織で決定した共有スペースの不要論が聞こえてきて困ったが、「それだけはダメ」と、その議論は打ち切った。

東灘区議員団の各議員も、よく働いて下さった。
民間では、山本婦人会長の市長への直訴は、利いた。市の都市計画課も、粘り強くエスカレーターの設置を訴えた。かくて、JR西日本は上りのみ承知。その時、課長は
「やっとここまで来ましたが、下りは絶対だめです」
という。そこで、仕方がないものの、時期が来れば下りも設置できるよう、設計上そのスペースを取っておくように書面で残し、更に実施検分もした。ここらで手を打たねば、工事が間に合わない。下りにこだわって上りを失っては、元も子もなかった。小原さんも山本さんも、私にとっても、苦渋の選択であった。負け惜しみではないが、決して断念した訳ではなく、この宿題をさらに押しすすめようと、誓い合った。

共有スペースの使い方の知恵については、地元の甲南大学の副学長、西村ゼミの知恵を借りた。母校の水原さんの指導のもと、地域の人々の顔写真を掲載するというユニークなスペースができた。

かくて迎えた24日。セレモニーに、どなたにおいで頂くか、どう進めるかは、JR西日本の責任で行われたが、市と小原さんのアドバイスが奏功して、心躍るセレモニーになった。ステージに立った小原さんは、
「新旧の地元民が力を合わせ、いい本山を形成することが大切だが、古くから住む地元民のことを忘れてはならない」
と強調しておられた。それは、3分の2が新住民になっている本山で、忘れてはいけない昔からのしきたりや、誓いについての、氏の思いからであった。

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映画好きの私は、
「バリアフリー化であれ程活躍なさった四方田会長が他界されたが、今、ともに苦労した二宮さんに抱かれて出席されいる」
ことを述べてから、村の長者が、浪人を使って盗賊を撃退した後、浪人が去っていく姿を見て、「勝ったのは農民だった」と語った七人の侍のラストシーンを引いた。つまり、「本山の賢さは、役人と議員を使って駅舎を造ったことだ」と。まさに、11月24日は、自分たちの駅を造った本山の人々の賢さが勝利した日なのだった。
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