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2013年 10月 11日 金曜日

名もなき正義の男が、トンガリながらタバコを口に、淡々と逝ってしまった。ガンに蝕まれていると知りつつ… 手がけていた活動を止めなかった、戦士。一級設計士の萩尾利雄さんである。

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ともに神戸甲南ライオンズのメンバーだった15年前、私も彼も、18年前の阪神淡路大震災で打ちひしがれていた。私は、彼をカンボジアに誘った。彼は、「アジアに行くと元気になるから、行こう」と乗ってきた。思いは一緒だった。

戦後敗戦の中で立ち上がった日本の、あのムンムンとしたエネルギー。あの中で、お隣から醤油や砂糖を借り、近所は仲良く、家族は、人々は助けあった。少しのいざこざも、すぐ許し合えた。そんな雰囲気が、まだカンボジアにはあった。

私達がカンボジアで気付いたのは、子供達や婦人の人格が無い事だった。私達は、教育の必要性を痛感し、神戸夢小学校を建てようと誓った。萩尾さんは、候補地をいろいろ探しまわって、アンコールワットの近隣に今の最適地をみつけ、決定した。お互いの立場で努力して、学校はわずか3年で着工し、完成した後も、私達は維持管理の為に気を配ってきた。

神戸では、震災後、にわかに建てたマンションや戸建住宅の欠陥住宅に苦しむ人々の為に、有力弁護士と組んで、相談をうける組織の中心的な働きを続けた。私が相談を受けた住民の方を紹介すると、本当に親切に力になってあげて下さった。

彼は、相手がどんな大きなハウスメーカーであってもひるまなかった、その自信を裏付ける、豊かな知識も持っていた。ある、六甲アイランドのマンションでのこと。上階が床を張り替えた為に、下の階では、すごく響いて困った事態になった。管理している会社は逃げまくった。上階の方は、管理規定に反しない素材で床の張り替えをしているので、問題は無く、過剰反応と主張したが、彼は、実際その室に入り、状況を知り、訴える方法をアドバイスし、問題を解決に導いた。

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そして、東北の震災。すぐ現地に行って、活躍した。現地にいる彼から「自治会館が壊滅して、集会所が無いので、神戸で解体される家で、まだ使える家を送って欲しい」と頼まれ、兵庫県解体組合にお願いに出向いたこともあった。

麻雀も好きで、私とよく遊んでくれた。彼と知り合った神戸甲南ライオンズで彼が去る時、私は、彼の為に抗議のスピーチをした。今でも、あの発言をしてよかったと思っている。

そんな、正義感の強い情熱家だった彼のお別れ会が10月5日、東急インで行われ、彼を愛したメンバーの多くがご参列下さっていた。ありがとう。多くの人々の心に撒かれた萩尾利雄の生きざまという種は、きっと、発芽する時がくると信じている。