▲ 401人の名前が刻まれている(資料写真)
忠国の碑の右側には、殉国の英霊の碑がある。そこには、国を思い故郷を愛し、家族を慈しみつつ散華されたと記されており、戦死された401人のお名前が刻まれている。
ふと見た左側には、本庄地区における空襲による一般市民犠牲者の碑もあった。
豊かな田園の広がる漁村だった本庄村の村人たちに、何の罪もなかったのは言うまでもない。今日中東で、化学兵器で虐殺されたと伝えられる人たちの命もまた、同じである。
主催者であり、東灘区遺族会 本庄分会の会長である橘 征一氏が、追悼の辞で、
「太平洋戦争から、68年。毎年、遺族会々員も少なくなり、この追悼式も、来て下さる方々が少なくなっているが、私達子供は、感謝の気持ちを忘れず、戦争の悲惨さを伝えて行く必要があります」
と、淡々と語られたのに、感動。
▲ 参加者こそ減ったとはいえ、立派な慰霊祭
正面の立派な忠国の碑も、「戦後、GHQがこの村に来るというので、話し合った結果、学校の校庭に埋めたのだ」と、87才におなりの長老、志井さんが語って下さった。68年を経た、今なお … 誰もが言うことではあるが、戦争の傷跡は深い ── そう、あらためて感じた1日だった。