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2013年 08月 12日 月曜日

矢田市長にとっては海外での最後の公式行事となる、神戸市天津市友好都市40周年記念式典。久元喜造氏の選挙の件があって気は進まなかったのだが、平野昌司議員が日中友好議員連盟の会長をしており、我が会派から彼だけでは…というバランス上のこともあって、市長ともども参加してきた。天津は今や… 人口1500万人と、中国でも6番目というほど、都市そのものが巨大化し、活性化。観光にも力を入れており、美しくライトアップされた川沿いの独特な建築や橋の灯りを楽しむナイトクルーズもあるなど、急変している。

そんな天津の礎は、港。35年前、宮崎神戸市長(当時)は、その港を構築するべく鳥居局長を天津に派遣して、第一歩を踏み出した。私がまだ、議員一期生の頃だったが、その鳥居局長の話を聞く機会を得て、感動していたのを思い出した。

当時、天津にはコピー機などなく、局長は、風呂敷に書類を包んで持ち帰り、神戸でコピーをしては戻って、仕事を指揮していた。重機もなかったが、「人々に仕事を与える為に、人力でやらせるのだ」と言っていた。たった一台のクレーンをバラバラに分解し、コピーして組んだが、動かなかったとか。その当時は、ビルもほとんど無かった。今やその町にはビルが建ち並び、高越渋滞が多発している。まさに、変わったのである。

大げさに言えば、神戸市の鳥居局長が天津心の基礎を築いたとも言えるだろう。平野昌司議員がスピーチでそんな話をすると、同意の拍手が起こった。私も拍手したのだが、心の中では、天津はこのままでいいのか、鳥居局長の目指した天津はこんなスモッグでおおわれた、青空がない町だったのか…と、自問自答していた。

早朝マラソンをして、胸が痛くなる空気の汚れた町。貧富の差が250倍の町。交通違反をした市民に違反者の旗を持たせて30分間、警察官の命令で立たせるような、人権無視の町 ── そんな町を、鳥居局長は願ってはいなかった。天津が生んだ偉大な指導者、周恩来の目指した町でもないが、天津市民は周恩来を尊敬し、立派な記念館も建っている。

今の天津を、羨ましいとは思わない。こんな経済発展は、望んでいない。天津市には、神戸市のもっといい所を学んで欲しかった。そこで、会議で私は、中・高校生の修学旅行をとりあげ、交換修学旅行を提案。鳥居局長が掘り、私たちが水をくみ上げた、この友好の井戸を涸らさず、いずれもがより良い都市に発展し続けることを願って、きっと実現させるぞ、と決意したのだった。
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▲ 中国側の教育関係者と、交換修学旅行について語り合った