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2011年 06月 20日 月曜日

「山の木と木は動けず、交われないが、人は動き、交わりを持てる。あなたと交わった50年は、私の… 誇りだった。君のことは決して忘れない。忘れるものか」と、そう弔辞を読んだ、今日の葬儀。

実は昨夜、古くからの友人の廣津岱雲君の奥さんから岱雲君が昨日死去されたと電話があり、友人代表として弔辞を頼まれたのだ。あんな良い男が、あんな親切な良い奴がと思うと、テレビを消し、ベランダに出て空を見上げ、涙が止まらなかった。彼とは、同じ昭和18年生まれ。私が4月1日、彼が3日で、ほぼ同時に誕生。同じ甲南大学で学び、知り合い、彼は応援団長、私は学友会長として、ともに支えあった。

本山地区文教地区指定運動の時も、助けてくれた。以来50年、共に人生を生きてきた。

彼は、書道界でも5本の指に入る文化人であった廣津雲仙先生の次男。彼が継ぐことになり、自身、日展の特選2回。日展の審査員を務めるほどになったが、故・雲仙先生の率いられた墨滴会の引き継ぎは、大変な仕事だったと思う。苦しい時期が続いた彼は、酒を浴びるように飲んでいた。本当に、辛かったのだろう。しかし、何よりも家族を愛した、良い男だった。

久子夫人は、大阪の有名な神社長の娘さん。この奥様が、彼を支えた。彼女の思いやりで、あの難局を乗り切れたのだろう。その頃、彼は私の求めに応じて「必勝」の文字を送ってくれた。その書は、美しいというよりは、むしろ荒々しく、激しいものだった。「書は心なり」とも言うそうだが、今にして思えば、その頃の彼自身の心を表していたようでもあった。

やがて、我々の先輩である生田神社宮司。文学博士でもある、日本に8人しかいない神社本庁長老、加藤隆久宮司にお願いして、最後の仕事ともいうべき、御尊父、廣津雲仙先生の生誕100周年記念大会を開いた。当日、会場の生田神社本殿は、全国から集まった弟子の方や指導者でうまった。生田神社の境内、生田の森には、書碑が建立された。それには長寿を祝って「椿寿」と書かれていたのだが、誰にも言わず、一人覚悟をしていたのだろうか…。己の余命を感じ取っていたのかも知れない。

今、立派な書道家が逝った。だが、その遺志は、二人のお嬢さんが継いでくださるという。お嬢さんがたの成功を、その成長を喜びつつ、祈り願っている。