「支援に駆けつけてくださったのは、神戸市が一番だった。更に…
本当に役に立つアドバイスと物資を頂いた。また、こうべまつりでは東北支援を最大テーマとして、横断幕で中央パレードで歩かせていただいた。本山第三小学校の子供達も応援してくださっている」と挨拶された後、
「今日の会議を楽しみにしていた」と、真剣な眼差しに。特に、下水処理場の復旧については、「全体で950億円かかる。国の現状復帰ではなく、機能中心で復旧させてもらうよう、指導して欲しい」と言及された。
自民党仙台市議団からは生々しい話しや質問が続き、我々も、経験上の正直な意見を申し上げた。
阪神大震災当時、我々の市長は笹山氏だったが、実務派の人だったので現地で復旧に当たってもらい、自公民の与党議員が東京対策に廻った。それは、官僚と交渉と言うよりも、まさに“戦い”だった。特に、自民党と民主党の市議団が、東京に張り付いて頑張った ─ 私もその一人だったので、今回のことは、手に取るように理解できる。
会議中は苦しくて、悲しくて、暗い話しばかりだった。が、「こんな話しもあります」と、逸話も紹介された。
「3月11日、すべてのライフラインが途切れ、真っ暗な夜が続いた。2日目に電気が通じ、わずかに残ったスーパーマーケットに灯りがつき、人々がわーっと押し掛けて、レジも打てないほど混乱した。スーパーマーケットのご主人が『精算は後で良いですから、商品を持って帰ってください』と言うと、人々は商品を持ち帰った。その後『2〜3人が、バーコードを切り取って精算に来てくださり、今は80%を回収できた』と笑顔で話してくださった」…… 素晴らしい人々、素晴らしい日本人を感じ、必ず東北は立ち上がるに違いないと思った。
最後に、私は神戸から持ってきた「はるかのひまわり」の種を約5000個、仙台市に託した。このはるかのひまわりも、東灘区のはるかちゃんが亡くなった跡から咲き乱れ、神戸市の復興のシンボルになった。仙台と神戸の心を繋ぐひまわりを観に行きたいと願いつつ、仙台を後にしたのだった。