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2011年 03月 05日 土曜日

いつもは原稿無しでスピーチする私だが、初めて原稿をしたためて望んだのは…
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阪神御影駅のバリアフリー化だけは、永年の思いがあったから。永らく公約に掲げ、全力を尽くしてきた阪神御影駅のバリアフリー化の一貫、御影クラッセからのオーバーブリッジの渡り初め式だ。

御影クラッセの代表高田展宏総括支配人ご挨拶始まった式典は、御影地区まちづくり協議会の会長藤澤福男氏に続き、私が最後にご挨拶申し上げた。

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「私は今日、嬉しい気持ちでやってまいりました。それは、今月中にでき上がる阪神御影駅のバリアフリー ── 今の、この社会を作って下さった敬愛する高齢者と障害者の皆さんのための、エレベーターやエスカレーターが装備される。それに伴っての、このオーバブリッジの渡り初め式だからです。今日は、これからの御影を背負ってくれる、しかも大切にしなければならない、御影の宝というべき子供達が初めて渡ってくれます。これは、御影の喜びであります。
しかし、ここまで来るまでにあまりにも多くの時間がかかり、苦しみの連続でした。この間、多くの人々の訴えが続いてきました。多くの、ご高齢の方々が、亡くなってしまいました。私の友人の下浦さんは、「私の母は階段を上り、ホームで倒れ他界しました」と語られたように、多くの方が、階段で倒れました。多くのご高齢者が、タクシーで、隣の石屋川やJR住吉駅に向かいました。
御影工業高校跡地の問題が浮上して5年間、御影は揺れ動き始めました。ある方は跡地を公園に、ある方はそのままにと。また、駅のバリアフリーも、もっと簡単な貨客式に、と…。
しかし、結局、御影の人々は賢い選択をされました。活性化を願い、商業ビルと多くの人々の住む住居という神戸市の提案を受入れ、だんじり広場と地域整備を条件にしたのです。もちろん、このオーバーブリッジにも、反対の声が上がりました。今振り返れば、どの意見も貴重で大切です。過去を振り返りそうした意見を、決して批判してはなりません。私達の選択は、この子供達に、どんな町を譲り渡していくかにあるからです。そのために、この町をどのような町にするか。それは、今生きている私を含めて、私達の大きな責任であります。
私は、この日が来るのを命を掛けて待ちわびてました。そして、この式典に参加できた事を誇りに思います。なぜなら、新しい御影の変化が始まり、御影が敬愛する高齢者や弱者を守れる、優しく賢い御影という目標に向かって船出する日だからです。
最後になりましたが、ここまで来るに当って、努力して下さった地元協議会・自治会・婦人会・老人会・子供会・御影市場・消防団・障害者団体・その他諸団体、そして、住友商事・阪神電鉄・市役所・区役所・国に、心からお礼を申し上げる次第です。
今後とも、御影が一団となって、御影の諸問題に邁進する事を願いながら、お祝いの言葉といたします」
と、ご挨拶申し上げた。

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地元御影幼稚園の園児たちが、高嶋良平氏が寄贈された子どもだんじりを引いてブリッジを渡り、式典は終了。帰りに、御影地区まちづくり協議会会長の藤澤氏が事務所にお立ち寄り下さったので、二人で、「今日の藤澤氏のスピーチが、御影の歴史を踏まえた格調高いものだった。これからも、二人御影のために頑張ろう」とまた夢を語り合った。

最終的なバリアフリー化に先駆けての式典は、私の議員生活にとって記念すべき、特別な、嬉しい日だった。