Skip to main content.

2011年 02月 27日 日曜日

かつて国学者大国隆正が、「岡本の梅とききつ来てみれば、梅の中なる岡本の里」と詠った岡本の、梅林公園の公園開きに、今年も… たくさんの観梅客が訪れてくださった。

「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と称される程有名なこの梅、豊臣秀吉が太閤時代に食梅として養殖され、江戸時代を通じて地域が拡大していった。全国から観梅に来るようになったのは明治初期頃。中期までは観梅のための臨時停車場だったのが、今の摂津本山駅になった。ちなみに、正式に駅になったのは昭和9年。

写真
明治38年に阪神青木駅ができ、大正9年には阪急岡本駅ができ…と、3本の鉄道が入り、観梅客で賑わったそうだ。阪神青木駅から数珠つなぎのお客さんのために、茶店や団子屋が並んでいたという。しかし、悲しくも、昭和13年の阪神大水害、神戸大空襲のために梅が焼失してしまい、地域の名所が無くなってしまった。

時は移り、ちょうど私が市議二期目の頃。当地にマンション計画が発表されると、地域の人々に頼まれて反対運動を起こし、激しく戦った。当時の宮崎市長は、ついに梅林公園とするべく、業者から土地を買収し公園にしてくれたのだった。

公園を設計してくれたのは、赤松と言う当時の若き係長。私に「私の第一号です。たくさんの梅を植えるのではなく、一本一本良い梅を植えます」と語ってくれたのを、今でも思い出す。きっと、今日の隆盛を夢見てくれていたのだろう。

写真
もともとこの地は、世界の文豪谷崎潤一郎が住んだ地域でもあり、谷崎が和洋折衷の屋敷を建て、多くの文学者を集めて文学論を論じたような、文化発祥の地だった。この地域とこの公園の歴史を知っているので、毎年案内しているが、毎年顔を見るのが楽しみでおいで下さる方も。毎年毎年、お互い元気で居ることを確かめているのだろうか ─ そう思うと、私も励みになる。

「岡本が梅でいっぱいになって欲しい」と、今年も元気でいる感謝とともに、祈ったのだった。