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2010年 11月 27日 土曜日

深江というところ、皆さん、どれほどご存じだろうか。私も、市議でありながらさほど知らなかったと恥じるほど。実は、深江地区の歴史や文化を訪ねて… 親子仲良く学習しようという企画で、地元深江まちづくり協議会主催のもと、深江地区連合自治会が協賛し催された「第1回深江歴史探訪まち歩き」に参加。午後1時から約2時間半、深江のまちを、大日霊女(おおひるめ)神社から、100人ほどの皆さんと御一緒に探索した。

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▲ 皆さんとても熱心で、案内役の方々の話に集中されていた。


出発前、深江連合自治会の志井保治会長から、深江村の歴史を伺った。深江生活文化資料館の道谷卓副館長は、深江の歴史について説明された。私も親しくお付き合いいただいている道谷氏、本職は歴史の先生ではなく、実は、獨協大学の法学部長で、特に刑事訴訟の権威。歴史は趣味が興じたものだそうだが、造詣が深く、御影地区でも町史をご編纂下さっていた。

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興味深いのは、神社の横から始まる魚屋道(ととやみち)。よくご存じのように、深江の魚を有馬に届けていたルートだが、実は、江戸幕府は許可しておらず、有馬に行くのに川西を経由するよう命じていた。というのも、宿場を強制的に通過させて、お金を落とさせようというのだ。ところが、それでは魚が傷んでしまう。当時の人は「有馬温泉に運ぶのではなく、有馬の洞窟にある神様に雨乞いしにいくので、商売に言っているのではない」と主張したそうだ。困った代官所、「神事で行くのは仕方がないが、魚を持って行ってはいけない」と判断した。お陰で、事実上、魚屋道は生き残ったのだそうだ。

西国街道の話しも出た。
「本街道は今の国道2号線で、浜街道は神社の南側を通っていた。だが、大名行列は人の少ない浜街道を通って、人々の頭を下げる手間を少なくしていた」
なるほど、非常に興味深い。その、浜街道での外国人との紛争を避けようと作られたのが、六甲山中の、参勤交代に使われることなく廃道になった、今やハイキングルートで知られる徳川道だ。

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▲昔は本庄村役場だった、東灘区の一部の縁の地
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▲ 本庄村役場跡の北側は、
浜街道「なごりの松」
更にさかのぼって、奈良時代には6歳で2反の土地を与えられ、それを耕し、税金と自分の食い扶持を生産していたのだとも。

なるほど、なるほど。こうして地元の歴史を紐解く重さ。悠久の時にしばし思いを馳せてみると、古くから代々に渡られる方にとっては誇りでもあるだろうし、新らしく越してこられた方々にも、きっと興味深いことだろうと思う。私も、神戸東灘のことを再認識し、その奥深い時の流れに携わっている立場の重さを感じた、貴重な週末だった。

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▲ 役場跡の碑文 クリックで拡大