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2010年 11月 08日 月曜日

区長が訪れた事もないというのに、地域任せで上がりだけを頂戴し、後はさよならで済まされるはずがないじゃあないか… というのも、事の発端は、神戸市東灘区御影にお住まいの置塩寿さんの、106歳でのご逝去。置塩媼は、ご自分の遺産、約11億3千万円以上と土地・屋敷を、使い道も指定せずに神戸市に寄付されたのだ。置塩媼の甥にあたられる元参議院議員の久世公尭さんは
「寿さんはよく『神戸は良いところ』と言っていた。神戸を愛していたのだろう」
と語られていた。私も、実はご生前に一・二回お訪ねした事はあったものの、繋がりは途絶えていた。

この件について、地元の有力者から電話があって初めて事を知った私に、その方は
「神戸は良いところと言っていたようだが、地域で、本当にいろいろとお世話させてもらった。長い間の一人暮らしで、いろんな事がありました。ある時など、新聞がたまっているのを発見し、警察と中に入ってみたら、家の中で倒れておられて、すぐに病院に運んで九死に一生を得られたことも。その後、病院の手配にも走り回った。何しろ、一人暮らしだったので、何かとお世話してきました」
と、仰って、そんな経緯から、地域で
「せめて、地域にその遺産の一部でも頂けたら、地域は『児童館や公民館等の施設や、だんじりなど、色々困っている事があるのになぁ…』と、ため息が出ている」
と、現在の状況をお伝えくださった。

ふりかえって、神戸市は何をしてくれただろう。地域がお世話をして、上がりを神戸市が、とは…

かくて、「少しは配慮したらどうだ」という思いが集まって、私を案内役に、市にその旨の陳情しようということになった。

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中村三郎副市長に陳情したところ、副市長は
「地元のお気持ちはよく理解できるが、だんじりにと言われると、宗教上とか色々事情があって難しいですが、お気持ちは理解できますので、何か方策を考えてみたい」
という返事。

私は、ここで幾度となく書いている『笹部新太郎』の話しをした。

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▲ 今でも悔しさがこみあげてくる
大阪から岡本の一角に邸宅を移し、桜の研究に打ち込まれた氏は、やはりお手伝いさんとの二人暮らしで、近隣とは仲良くされていたものの、世間から離れておられたようだった。ただ、西宮市の南部さんと言う助役が年に一・二回訪ねていたようで、笹部さんの研究成果と文献は、そっくり西宮市に寄贈された。地域の方々が悔しがって私に訴えてこられ、当時の宮崎市長は激怒して区長を「なぜ区内の様子を調べて、年に一・二回訪問していなかったのか。地区の人々の気持ちは分かる」と叱責した。かくて、ご遺族から土地を買い取り、記念公園ができたのだ。

当時私は、議員二期生。
「笹部さんの研究成果を神戸市に返して欲しい」
と西宮市の南部助役にお願いに行ったら、ニコニコ笑いながら
「先生、あのような宝物はどこにあっても良いのです。せっかくですから西宮市でお預かりしますから、いつでも御覧になれますよ」
と、軽くあしらわれたことが、脳裏を離れない。

置塩媼が仰っていたという「神戸は良いところ」の意味されたところは、お住まいだった地域が良いから、「市に寄付すれば、少しはお世話になった地域に少貢献できる」ということではないだろうか。何とか、地域にそんなご遺志、ご恩恵が届くように、願ってやまない。行政というが、司るのも、その根拠になる法を運用するのも、人が人のために成すべきことなのである。