「寿さんはよく『神戸は良いところ』と言っていた。神戸を愛していたのだろう」と語られていた。私も、実はご生前に一・二回お訪ねした事はあったものの、繋がりは途絶えていた。
この件について、地元の有力者から電話があって初めて事を知った私に、その方は
「神戸は良いところと言っていたようだが、地域で、本当にいろいろとお世話させてもらった。長い間の一人暮らしで、いろんな事がありました。ある時など、新聞がたまっているのを発見し、警察と中に入ってみたら、家の中で倒れておられて、すぐに病院に運んで九死に一生を得られたことも。その後、病院の手配にも走り回った。何しろ、一人暮らしだったので、何かとお世話してきました」と、仰って、そんな経緯から、地域で
「せめて、地域にその遺産の一部でも頂けたら、地域は『児童館や公民館等の施設や、だんじりなど、色々困っている事があるのになぁ…』と、ため息が出ている」と、現在の状況をお伝えくださった。
ふりかえって、神戸市は何をしてくれただろう。地域がお世話をして、上がりを神戸市が、とは…
かくて、「少しは配慮したらどうだ」という思いが集まって、私を案内役に、市にその旨の陳情しようということになった。
中村三郎副市長に陳情したところ、副市長は
「地元のお気持ちはよく理解できるが、だんじりにと言われると、宗教上とか色々事情があって難しいですが、お気持ちは理解できますので、何か方策を考えてみたい」という返事。
私は、ここで幾度となく書いている『笹部新太郎』の話しをした。
▲ 今でも悔しさがこみあげてくる
当時私は、議員二期生。
「笹部さんの研究成果を神戸市に返して欲しい」と西宮市の南部助役にお願いに行ったら、ニコニコ笑いながら
「先生、あのような宝物はどこにあっても良いのです。せっかくですから西宮市でお預かりしますから、いつでも御覧になれますよ」と、軽くあしらわれたことが、脳裏を離れない。
置塩媼が仰っていたという「神戸は良いところ」の意味されたところは、お住まいだった地域が良いから、「市に寄付すれば、少しはお世話になった地域に少貢献できる」ということではないだろうか。何とか、地域にそんなご遺志、ご恩恵が届くように、願ってやまない。行政というが、司るのも、その根拠になる法を運用するのも、人が人のために成すべきことなのである。