当地の民生委員の方が今朝のテレビでインタビューされていたが、そっと寄り添っている御主人の姿に優しさが出ていたのが嬉しかった。この御夫婦は、良く地元の世話をされ、地域の信頼も厚い。もしこの民生委員さんを批判するなら、私が代わりに戦いたいと思う程だ。また、この公園と私の縁の深さにも驚いてもいる。
▲ 春の桜守公園、観桜会で
笹部さんは、社交界の花といわれた梅子夫人と離婚後、岡本にきて一人暮らしだった。もっとも、尊敬を集めておられた笹部さんのことだけに客人も多く、お世話をされていた上品なお手伝いさんがいたと聞いている。私がその話しを聞いたのは、松澤さんか古山さんからだったと思うが、残念ながらお二人は他界されてしまった。お二人も、とても立派な方だった。松澤さんは70歳になって書を始める程意欲的。古山さんは今は公園になっている場所の南側の洋館をリクルートがマンションにする計画をたてていると知って、当時の財産区の山本さんと古山さんと私で、銀行に融資をしないように掛け合うなどして、公園を守り、拡張するためにご協力下さった方だった。ともあれ、お二人亡き今となっては、お手伝いさんがその後どうなったのかなど、知る由もない。
私の勝手と言われるかも知れないが、世界一の桜の文献を持っていった西宮市も、笹部さんの御厚情だけでなく、身の回りにも少しは気を配って下されば、嬉しかった。きっとそこまで頼まれてませんと仰るだろうが、私が「文献を地元に返して欲しい」と西宮市の助役に交渉に行った時「安井先生、あれは人類の宝物で、御覧になりたかったらいつでも西宮市に来て下さればいいのです」と言われ、コケにされて帰ってきた無念さが、今も残っている。当時の宮崎市長もその後、東灘区長を厳しく叱責した。「年に一度くらい表敬訪問していれば、こんなことにはならなかった」と、私も残念に思う。
そんなわけで、あの悔しさがよみがえってきてちょっと脱線したけれど、この高齢者問題については、もう少し追跡してみたいと思っている。
[ 2010年8月18日追記 ] その後の調査で、笹部邸の落成は1960年だが、不明のご高齢者はそれよりもずっと以前から住民登録されていたことが判明。真実には近づいたのだろうが、謎は、より深まってしまった。