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2010年 06月 21日 月曜日

「戦艦大和」の模型を寄贈するために、阪神基地隊を訪問。神戸市中央区の理容師Aさんが… 2年の歳月と材料費約20万円をかけて製作された、250分の1スケールの「戦艦大和」だ。「どこか良い嫁入り先を」と考えておられたのを、いつも髪を切りに行かれるライオンズの仲間のTさんが耳にして、私にご相談下さった。すぐに阪神基地隊の司令にお話しすると、受けて頂けるとのこと。かくて、本日、無事に嫁入りという次第。

模型の見事な出来上がりに感心しつつ、「大和」談義に花が咲いた。さすがは司令、初めて聞く話が、たくさんあった。「大和」内にはクーラーが完備され、エレベーターも設置されていたらしい。当時クーラーは普及していないし、エレベーターも少ない。そんな時代に「大和」には装備されていたのだ。まさに、どこから見ても世界一だったという。

「わずかな護衛艦しか連れず、沖縄に向かう途中敵の攻撃を受け満身創痍になり、その後魚雷を艦の片側に受け続け傾いた時、バランスを取るために反対側に水を入れた。その時多くの兵が機関室に残っていた」
と司令は目を塞いだ。私が
「『大和』は日本人の心のふるさとかも知れませんね」
と言ったそれに同意はされなかったけれど、司令は
「我々は戦後いろいろな戦艦を造り、昔の古い名前を命名していますが、『大和』『武蔵』だけは付けられないのですよ。別に決まっている訳でもないのですが、巨人軍の『3番』のようなものですね」
大和で散った人々のためを思えば、なるほど、自然にそうなるだろうと、分かる。

写真

司令は
「『大和』が沖縄救出に向かう時、艦の中にありったけの化粧品と生理用品を積んで行った。沖縄の若い女性がどんなに苦しんでいるかと思い、内地の兵が女性のために集め、沖縄に届けようと思ったそうです」
と付け加えられた。目頭が熱くなった。あの大戦末期、そんな心配りができる優しさが海軍にはあったのかと。

「大和」は今、徳之島の3km程沖合で、海底に眠っている。引き上げて欲しいという声もあるが、
「そのままにしておこう。戦争が何か、どんなに悲惨なものかを訴えるためにも…」
と、司令と語りあった。

Aさんの寄贈して下さった「戦艦大和」は、これから、基地内で多くの人々の目に触れるだろう、その都度、日本人の心を呼び起こし続けて欲しいものだと、願っている。