▲早朝から多くの人が集まった
▲笹部氏の思いを話す
「ソメイヨシノは悪くないが、最も日本人にあう桜はソメイヨシノのように豪華絢爛ではなく、緑とともに花が咲き、人知れず散っていき、残った緑で楽しませる奥ゆかしさだ」と思っておられたようだ。
氏は、そう言う意味でも、花と葉が同時に咲く山桜を心から愛したのだ。もう、笹部氏のような人は出るまい。氏は桜を通じて平和を愛された。戦争で、自分が育てた桜が薪となって切られた事を悲しんだ。氏が桜に捧げられた、その生涯と財産をかけたロマンは、水上勉氏の名作「櫻守」になった。
私は、笹部氏がかつて住んでおられた屋敷に行った事がある。150〜160坪の敷地の北東に、40坪程の家。瀟酒なたたずまいは、すべて桜づくしで建てられており、床の間の柱は火であぶると桜の模様が浮かんでくる。その屋敷も壊され、貴重な文献は西宮市に持っていかれてしまった。
その時 ─ 忘れもしない昭和56年。悔しくて、悔しくて、西宮市に抗議に行った私は、出てきた当時の西宮市の南野助役に、
「宝物は皆のもので、見たければ西宮市に来れば良い」とあしらわれてしまった。
苦しかった。せめてとの思いで、当時の神戸市の宮崎市長に直訴した。激怒した市長は、当時の東灘区長を叱責。かくて、土地だけは確保できたのが、今の公園。私の若かりし頃の、苦い思い出である。
そんなわけで、私は恐らく誰よりも公園の成り立ちを知っている一人だろうと思う。が、今はただただ、丁度、他の桜が華やかに咲き誇るのを尻目に一本、己を悟ったかのようにマイペースで咲く今年の笹部桜のように、人々が公園の桜を愛でるのを見守るのみである。