Skip to main content.

2010年 02月 20日 土曜日


▲久しぶりのボランティア
久しぶりの震災語り部ボランティアでお話ししたのは、なかなか熱心な愛媛県の新居浜市の小学5年生、45人。ノートを取る子も居て、私も思わず熱が入った。私は… 「阪神大震災で最も活躍したのは、教職員だった」と語り出した。当時、私は小学校3校と高等学校2校で、避難していた人々の指揮をしていた。教職員が人々を説得・理解させる力は、さすがに見事だった。いつまでも避難所となった学校に居残り、仮設住宅に移るなど自立しない人々がかなりおられて、校長から「いつまでも居ても良い」との念書を取って廊下に貼付けた人もいた。

いろいろな事情はあるのだろうが、それにしても、3ヶ月も過ぎると、こども達のためにも教育現場を返してやらねばならない。それでなくても、怯え続けているこどもが多く、精神的ケアが必要だったので、先ず普段の学校生活への復帰が大切だった。そこで、学校に残ろうとする人々に対応したのが、教職員だった。様々な場面で良くあることだが、思わぬことで仕事が飛び込んで来たようなものだ。中には、買ったばかりの自分の自家用車で、ご遺体を灘高校の講堂に運んだ教師もおられた。

本当に復興を支えたのは、教職員の皆さんだったように思う。しかし、語り部の中に教職員はおられない。もう、語りたくないのかも知れない。私の知っている以上に、ご苦労されたのかも知れないと思ったりもする。

最後に質問を受け付けると、ある生徒から「東灘区で1,200人の方が亡くなられたとおっしゃいました。が、調べて来た資料では999人とあるのですが、どうして違うのですか?」と尋ねられた。「調べる時期や、その場での即死か、病院で亡くなったのかによっても、数字が違ってくるんです」と答えたのだが、事実、東灘区では1,200人の方が亡くなられているのである。本当に良く調べて来ていて、とても熱心な生徒達であった。

他にも、3人のこどもが学習に来ていた。灘区の西郷小学校の6年生2人と4年生の兄弟で、もちろん震災を知らないこども達である。彼らの感性の中で、震災をどう受け止めているのか知りたくて尋ねてみると、両親等から「恐かった」と教えられているらしく、彼らも「恐いもの・恐ろしいもの」としか感じていないようだった。確かにそうだけれども、その時の人々の暮らしや、神戸市民と国民がやったこと ─ 皆が助け合ったことや、人の命の尊厳も伝えなくては、犠牲になられた方々に申し訳ないと思う。こうして、親から教えられる範囲を超えて、ここに来て学習するこども達の素晴らしさ ── その行動力に、心打たれた。きっと、背負っているリュックサックに、学んだことをたくさん詰め込んで帰ってくれることだろう。