私は5時46分に一人黙祷し、仏壇に手を合わせた。それから、当時の記録と写真に目を通していた。平野昌司市議、民主党の荻阪伸秀市議、それに、故・吉本泰男市議。きっと同じ思いであっただろうと思う。
あの時、地元でのでき得る限りの救援活動の後、6日後には、4人で上京し、官僚との戦いを始めていた。新幹線では、皆泣いていた。書き始めるとあまりにも膨大であり、あまりにつらく、悲しいから書けない。我々は、153万人の人々を背負う産業を失って、苦しんだ。空港建設すら中止せざるを得ない状況だったのである。
だが、議会の議論で医療産業都市の構想が出てきており、どうしても空港が必要となった。故・吉本泰男市議が当時の堺議長に、空港については発言に気を付けて下さるよう要請していたのを、鮮明に覚えている。
▲当時の小川助役