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2010年 01月 18日 月曜日

報道各社は、神戸市の復興をたたえ、そして当時の生々しい映像を放映し、神戸市民の苦悩と頑張りと悲しみ、そして悲惨さを報道してくれている ─ 言うまでもなく、震災15周年を迎えた1月17日の神戸のことである。

私は5時46分に一人黙祷し、仏壇に手を合わせた。それから、当時の記録と写真に目を通していた。平野昌司市議、民主党の荻阪伸秀市議、それに、故・吉本泰男市議。きっと同じ思いであっただろうと思う。

あの時、地元でのでき得る限りの救援活動の後、6日後には、4人で上京し、官僚との戦いを始めていた。新幹線では、皆泣いていた。書き始めるとあまりにも膨大であり、あまりにつらく、悲しいから書けない。我々は、153万人の人々を背負う産業を失って、苦しんだ。空港建設すら中止せざるを得ない状況だったのである。

だが、議会の議論で医療産業都市の構想が出てきており、どうしても空港が必要となった。故・吉本泰男市議が当時の堺議長に、空港については発言に気を付けて下さるよう要請していたのを、鮮明に覚えている。


▲当時の小川助役
色々なことがあの日を境に変わり、あの日から始まった。そして、今はまだ道中である。皆も私も、未だ重い十字架を背負って歩んでいる。おそらく、当時東京に張り付いた議員は、震災行事を淡々とこなしながらも、同じ十字架を背負っていることだろう。きっと、神戸市を立派に活性化し、福祉の充実した、文化の薫り高い人材育成の町として完成させる ─ それまでは、死んでも死にきれない。震災15年の節目に、そんな思いを確かめたのだった。