加えて、この餅つき大会で特筆すべきは… 町の人々が協力しご参加下さっていること。美人のお好み焼き屋のおかみで有名だった奥さんが、ソバ焼きを作られる。今も運転手をしている近所の68歳になるおじさんは、道具を運ぶ。住吉中学の現役の野球部の中学生が、一緒に打ち上がった餅をこねる。OB会の婦人部隊と近所の人々が、きな粉餅にしたり、おろし餅にするなどして、仕上げる ── と、実に楽しく美しい風景である。
▲街の人と中学生が一緒になって
人は、自分の子供が生まれる時、健常者である事を願う。が、生まれたら、そんな願いのことは忘れがちである。しかし、何万人かに一人の確率で、望まずして障碍者の子供が生まれる。これは、人類が動物であり続ける限り、仕方のない事である。私は「一日に一回は障碍者の事を思う心が、福祉を育てる」と信じて、皆様にその事を訴え続けている。
住吉中学OB会の方々の行いは、そんな私の考えに賛同してというわけではない。昭和54年、上田平介さんという方が「何か良い事をして、住吉中学野球部OB会に、良い方向付けをしたい」と相談された事があった。私は「一日、OBの方が自腹をきって、各自の車でピクニックにでも御招待されたら」と提案した。共進牛乳さんにご無理を言って、青空の下、野原でピクニックをした。OBの皆さんが「クタクタになった」「もう参った」と口々に言った。重度障碍者の世話がいかに大変か、お分かりになったと仰った。
私は、それで「良かった、終わった」と思っていたら、なんと今まで30年間、ずっと続いていた。障碍者と交流を続け、住吉中学校で大運動会を毎年開いている。協力して下さる住吉中学校の校長も、職員の人々も立派だ。校長に至っては、自ら競技に参加。むろん、中学生も町の人々も、参加して一緒に楽しんでいる。
昭和59年には、県の「のじぎく賞」を受賞し、そして市の教育委員会の知る所となり、平成14年、「市民福祉顕彰奨励賞」を受賞したが、住吉中学野球部OB会は、もとよりそんな事は期待していなかった。少しは支えになったかも知れないが、もっと確かなのは、このOB会のおかげで、住吉地区の人々も住吉中学校も、障碍者への理解が他地区より進んでいることだろう。何しろ、30年間と言う歳月は、凄いの一言である。
その後、私とのパイプ役をして下さった上田平介さんは亡くなられたが、遺志を引き継いだ小林英治さんが、ずっとお世話下さっている。小林さんは全く気取らず、良い事をしている素振りも見せず、淡々と楽しんでやっておられる。
▲花束贈呈
心暖まった私が帰ろうとすると、一人の障碍者を抱えた御婦人が私にまた、「私が死ぬ時、この子を殺して死のうと思います。こんな世の中に心配で残していけません。時々そう考えてしまうのです」と訴えられた。いつも、何と情けない社会を作ってしまったんだろうと、悲しく、申し訳なく思う。寒風の中、芯は暖かく、しかしどこか冷えた心を抱いて、帰路についたのだった。