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2009年 12月 07日 月曜日

師走に入り、地域の餅つき大会が始まった。昨日は、東灘区の重度障碍者の皆様と共に行う住吉中学校野球部OB会主催の餅つき会に参加。このOB会は10年以上続いていて、障碍者の皆さんも毎年大変楽しみにしておられ、共にかけ声を掛け、歓声を上げる。主催側の方々も、その顔と声に喜んでおられる。

加えて、この餅つき大会で特筆すべきは… 町の人々が協力しご参加下さっていること。美人のお好み焼き屋のおかみで有名だった奥さんが、ソバ焼きを作られる。今も運転手をしている近所の68歳になるおじさんは、道具を運ぶ。住吉中学の現役の野球部の中学生が、一緒に打ち上がった餅をこねる。OB会の婦人部隊と近所の人々が、きな粉餅にしたり、おろし餅にするなどして、仕上げる ── と、実に楽しく美しい風景である。


▲街の人と中学生が一緒になって
昨日来ていた中学の野球部員たちは、きっと良いことを学んでいる。学校に一つは特別支援学級があるので、障碍者について知ってはいるだろうが、餅つき大会で一緒だったのはさらに重い障碍を持つ人々だ。健常者である事がいかにありがたい事か。その場が、障碍者への思いやりと福祉の重要性への思いに向かってくれればと思う。使っていた茶屋会館が無料なのも、本当にありがたいことである。

人は、自分の子供が生まれる時、健常者である事を願う。が、生まれたら、そんな願いのことは忘れがちである。しかし、何万人かに一人の確率で、望まずして障碍者の子供が生まれる。これは、人類が動物であり続ける限り、仕方のない事である。私は「一日に一回は障碍者の事を思う心が、福祉を育てる」と信じて、皆様にその事を訴え続けている。

住吉中学OB会の方々の行いは、そんな私の考えに賛同してというわけではない。昭和54年、上田平介さんという方が「何か良い事をして、住吉中学野球部OB会に、良い方向付けをしたい」と相談された事があった。私は「一日、OBの方が自腹をきって、各自の車でピクニックにでも御招待されたら」と提案した。共進牛乳さんにご無理を言って、青空の下、野原でピクニックをした。OBの皆さんが「クタクタになった」「もう参った」と口々に言った。重度障碍者の世話がいかに大変か、お分かりになったと仰った。

私は、それで「良かった、終わった」と思っていたら、なんと今まで30年間、ずっと続いていた。障碍者と交流を続け、住吉中学校で大運動会を毎年開いている。協力して下さる住吉中学校の校長も、職員の人々も立派だ。校長に至っては、自ら競技に参加。むろん、中学生も町の人々も、参加して一緒に楽しんでいる。

昭和59年には、県の「のじぎく賞」を受賞し、そして市の教育委員会の知る所となり、平成14年、「市民福祉顕彰奨励賞」を受賞したが、住吉中学野球部OB会は、もとよりそんな事は期待していなかった。少しは支えになったかも知れないが、もっと確かなのは、このOB会のおかげで、住吉地区の人々も住吉中学校も、障碍者への理解が他地区より進んでいることだろう。何しろ、30年間と言う歳月は、凄いの一言である。

その後、私とのパイプ役をして下さった上田平介さんは亡くなられたが、遺志を引き継いだ小林英治さんが、ずっとお世話下さっている。小林さんは全く気取らず、良い事をしている素振りも見せず、淡々と楽しんでやっておられる。


▲花束贈呈
一方、障碍者側の世話役は武田純子さん。自らも障碍者のお子さんがおられた方で、30年間、重度障碍者児父母の会東灘支部の代表として、世話役を担ってこられた人望の厚い方。本年12月3日、厚生労働大臣功労賞を受賞された。私に言わせれば、遅すぎる受賞だと思う。餅つき大会に合わせて、その受賞のお披露目があり、父母の会の代表から花束が贈呈された。共に、心から祝いたい。まさに地域を上げて、OB会の活動をご支援くださっている。

心暖まった私が帰ろうとすると、一人の障碍者を抱えた御婦人が私にまた、「私が死ぬ時、この子を殺して死のうと思います。こんな世の中に心配で残していけません。時々そう考えてしまうのです」と訴えられた。いつも、何と情けない社会を作ってしまったんだろうと、悲しく、申し訳なく思う。寒風の中、芯は暖かく、しかしどこか冷えた心を抱いて、帰路についたのだった。