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2009年 12月 05日 土曜日

野原に隠れて30〜40分もたった頃、ようやく逃亡に気付いたソ連軍が、川との間、約500mほどの距離で広がる草むらに向かって、貨車の屋根に備えられた機銃群を乱射しはじめた。ソ連兵は、およそ1時間ほども撃ち続けた。前田氏は… 神に祈り続けた。身も凍る恐怖に身を震わせた。日が沈む頃、列車がゆっくりと進み始めた。それでも身を隠し、じっと耐えた。やがて、朝日が昇った頃、そっと動きだした。逃亡した5人のうち3人が、機銃掃射で即死。残った2人、さてどうしようか…。ひとまず、満州鉄道に沿って大連に向かった。

2人の間に50mくらいの距離を置き、警戒をしながら1週間、歩き続けた。1日に1回は中国の農村の民家に入り「メシ、メシ、シンジャウ」。そう言って食事をするジェスチャーをすると、コウリャンをお椀に入れて、どこの家でも食べさせてくれた。「仮に、日本の農家に中国人や韓国人が入って来たら、いかがでしょうか?」と、前田氏。


▲今は85歳で好々爺然とされているが
体験談は強烈
歩き続けて1週間目。日本軍の軍服を着た二人は、中共軍にとうとう捕まってしまった。尋問を受け、中共軍に編入され、中共軍の教官に。まさに、数奇な運命であった。毛沢東率いる中共軍は全くの素人と農民で編成されており、銃器はソ連軍から渡された、日本軍から押収した三八式歩兵銃。それも、3人に1挺しかない。これで、ゲリラ戦を展開する戦略。対する政府軍は蒋介石が率い、アメリカから優秀な武器が渡されていて、兵も良く訓練されていた。

方や、中共軍には団結力があり、一つの村を落とすのにも、食料を断つ戦法を取ったり、村人を味方につけてみたりと、戦術を尽くして戦ったという。こうして、氏は約1〜2ヶ月ほど、中共軍兵士の指導に当たった。中共軍の中には、日本の民間人も雑役夫として編入されており、8人の日本人がいたそうだ。彼ら雑役夫は衰弱し、負傷している者がほとんど。氏はその中の1人、岡山出身の方を、良く世話した。

そんなある日、とある村で政府軍に包囲され、今度は、なんと政府軍の捕虜に。氏はソ連軍・中共軍(毛沢東)・政府軍(蒋介石)と三軍の捕虜になるという、数奇な人生を送る事になった。捕虜となった日本人8人は、四平田という町に連行される。そこには、政府軍の指揮下、2万人ほどの日本人が集められていた。8人は小学校の講堂に入れられたが、その内6人は、日本人の家族や親戚が同じ町にいて、引き取られていった。氏とずっと運命を共にしてきた相棒は取り残されたが、怪我の世話をした前述の岡山県の方が、氏と相棒を引き取ってくれた。

昭和21年7月20日。四平田の2万人の日本人と共にようやく船で佐世保に帰国し、神戸に帰り着いた。昭和19年11月、平壌の第38工兵隊に入隊して以来21ヶ月目。まさに死線を越え、まるでドラマのように、映画のように、国家の犠牲となって彷徨ったのである。帰国後は、大地主だったのが農地改革に遭い、財産の多くを失いもしたのだが、わずかな事に動じず、いつもニコニコ人情味厚い人格で、今日なお元気に暮らしておられる。

私はこの話がとても好きで、後援会のある度にお願いして、皆さんに話して頂く。人生はまさにドラマであり、運であるが、氏の経験の中には、人の情け・勇気・冷血さ・希望など、すべてが濃縮されて入っている。

そんな人情味厚い前田氏。中国人・韓国人の事は決して悪く言わないけれど、「ソ連人だけは絶対に許さない」と何度も仰る。余程お辛かったのだろう。あれ以来、日本が参戦した戦争はない。これからも、あってはならない。しかし、この経験談は、氏がお元気なうちに、何回でもお聞かせ頂きたい、貴重な話である。

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