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2009年 12月 04日 金曜日

紳士・淑女録シリーズの第3弾にご紹介申し上げるのは、前田一雄氏、85歳。昨年まで東灘区青木地区の財産区会長としてご活躍下さったが、今は娘さんの所で悠々自適、余生を楽しんでおられる。

氏は、大正13年1月2日に青木の地に生まれ… 20歳で日本陸軍に武庫郡第1乙種合格。昭和19年9月、岡山工兵隊に入隊し、すぐ朝鮮の平壌に送られたものの、昭和20年8月、1年足らずで終戦。同年8月20日にはソ連軍が平壌に進入してきて、武装解除。かくて、9月2日10時、捕虜収容所(それまで日本陸軍が平壌で使っていた練習所)に収容される事になった。

兵隊2万人・将校2000人が持てるものだけもって、「入れ」の命令のもと、わずか1時間で行った。もちろん食料は与えられず、代表1000人が食べ物を集めて回る自活生活が続いたそうだ。


▲いつもお元気な85歳(右)
ここまでお話をうかがっている間だけでも、氏のお話の中に幾度か「ロスケ」と言う言葉がでてきた。言うまでもなく、漢字で「露助」。ソ連に対する氏なりの思いが感じられるのだが、それもそのはず、12月にもなると寒く、毎日零下の日が続いたらしい。忘れられないほど、お辛かったのだろう。

しかし、将校だけは飛行機でソ連に連れて行かれたという。将校は待遇が違って、タバコも与えられていた。理由は分からないと仰るし、将校達がその後どうなったかも分からずじまい。

その後、平壌の捕虜生活が続くこと、約一ヶ月。ある日、ソ連軍が「日本に帰してやる」と言いだした。ソ連軍は、2万人の日本兵を1000人ずつ、列車で朝鮮の日本海側、興南(コウナン)に送った。60人ずつ入れられた貨車の真ん中に置いたドラム缶に火を炊いて暖を取り、2時間おきに停車しては、水を汲みに行く。屋根にはソ連軍が機銃を持って見張っていた。興南に連行されるまで、4日間くらいかかったそうだ。

興南の町には2万人くらいの日本人が居て、日本窒素(現チッソ株式会社)という大きな会社があり、日本の使う火薬の80%を作っていた。その興南で、今度は港湾労働者としてこき使われた。ソ連軍は、この会社の備品からも、2万人の住んだ町からも、連れてきた日本人を使って、一切合切あれこれ全部をソ連の船に乗せ、物品を運びさったのだ。

この仕事中、多くの日本人が死んでいった。病死する者もあったが、多くは事故だったという。港湾の仕事には危険が伴うが、初めての仕事でそんなことは誰も知らず、事故が続発していたのだ。しかも、零下20度。一日に与えられる食事は、昼一回のコウリャンだけ。たまに粟が与えらる程度ながら、なぜか塩と砂糖は与えてくれた。

逆境にあっても日本人はなかなかのもので、倉庫の荷役になると、切った竹筒を袋に差し込むと、米や乾燥野菜をポケットにできるだけ入れ、皆で飢えをしのいだそうだ。燃料は山の木を切って使ったので、見る見るうちにハゲ山になったそうだ。ただ、ありがたかったことに、見張りのソ連兵は自分の担当の倉庫だけを見張っていて、隣で日本人が倉庫に入っても見逃してくれていたと言う。「たしかな理由は分からないけれど、少しの情けがあったかもしれない」と、当時を振り返りつつ語ってくださった。

昭和21年4月まで、そんな生活が続く。その時期、中共軍が影響力を持ちだしていて、捕虜2万人の前歴を一人ずつ聞き出し、グループ化して連れ出しては、中国各地で使い始めたそうだ。氏は、残されたおよそ4000人ほどの一人だった。ソ連は、その4000人を「中国の農家で働かせる」と言ったが、実際には中共軍の兵士として編入した。

今度もまた、列車で60人ずつ貨物に乗せられ、2時間おきの水汲みで5人が川へ向かう移動。が、今度はその5人で脱走の計画を実行した。奉天の郊外で5人が60人分の水筒を持ち、500mくらい離れた川へ向かった。できるだけ日暮れを狙って、最後に5人が貨物を離れた。計画通り、5人は貨物に帰らず、背丈くらいの高さの草が生い茂った野原に、バラバラになって身を潜めた。

この続きは、また明日…
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