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2009年 11月 29日 日曜日


▲福祉センター増設の説明会
昨昨夜7時から、兵庫県福祉センターの増築工事説明会が当該福祉センターで開かれ、地元からの要請を受け、初めて出席。せっかく良い事を県民・市民の為にしようとしているのに、惜しい。

実は、私の古い友人からこの問題について今年初めから何回か出席要請を受けていたが、県の成される公共工事であり、福祉センターともなると意見を述べにくくもあり、「まして県の事だから…」と思って出席を断ってきた。が、県と工事請負会社から話し合いの打ち切りを言いわたされ… それが、某県会議員のあっせんで再開されたとの事で、まあ1回くらいは様子見のつもりでと、必要な書類と経過を調べてみた。全体として、もう少し丁寧に住民と接した方がうまくいくのに、丁寧さが足りないと思った。 



例えば、説明会の回数も少なすぎれば、地元の人々への呼びかける範囲も狭すぎる。特に、工事請負会社がもっと地元民と話し合わねばならないのに、大変な話し合い不足。建物の解体時は相当な振動と騒音がしたという。が、それについて
「低振動の機械を使用しています。震度計で計量していま す。もし不快でしたら申し出て下さい」
とあるだけ。そりゃあ、そんな方法もあるだろうが、今どきは、誰から見ても、例え通りすがりの市民が見ても、工事の状況や振動・騒音の状況が分かるように計器が表示されているほどだ。費用も、そんなにかからない。 以前視察した新市民病院のモデルルーム建築でも、そうした表示がなされていた。


▲新市民病院のモデルルームにあった震度・騒音計
折から、今日すべての工程が終わった深江の福祉施設でも、住民代表の2~3名に計器を貸し出し、
「約束通り低振動・低騒音で仕事をします。瞬間的に出る大きな振動や騒音は許して下さい。1分以上続くようでしたら、 お知らせください。善処します」
と協定を結んでいた。これで、住民は施工業者と一体化し、生活も守られると感じる。それは、現場監督と歓談しているほどのようだ。今日は落成内覧会で、建ちあがった施設から自分の家がどのように見えるかを住民が確かめた。むろん約束通り。この施設は地元に溶け込み、仲良く存続することだろう。



一方、県の福祉センター建設のほうは、公的なものだから民間を上回る地元との協調があって然るべきなのに、工事を請負った会社は地元からの信頼を得ていない。もしかすると、県がバックで合法的にする工事に何の文句があるか、とでも思っているのかも知れない。時々こんな方がいらっしゃるが、それが通るようなら、施主側と住民のトラブルを調整する市の建築調整課はいらない。いかに合法的とはいえ、工事に苦しみ、落成後も生活環境が著しく変わる、そこに暮らす人々の意見は聞くべきである。また、住民が建築に無知な事に付け込むなどは、以ての外である。

様々な想定される課題を話し合うために、市は工事協定書の締結を勧めている。今回の件では、県は営繕課で協定書を交わした前例がないことを理由に、議事録で済まそうとしている。が、それは乱暴にすぎる。政令市の行政で、絶対とは言わないまでも工事協定を、雛形まで作って勧めているのに、県が無視しては通らないだろう。一応、この件については「検討して前向きな回答を出す」と言っておられたので、期待したい。 



片や、地元の方からは「一旦工事を止めろ」との意見があったが、これはやりすぎだろう。一旦工事を止めると、失業や工事業者の損失など、経済的な困窮者を出す恐れもある。営繕課に協定ができないなら、工事請負業者と住民が話し合い協定を結ぶ、その場に県関係者が立ち会っていれば、十分である。その中で、 騒音・振動・風害・交通安全・ガードマンの配置・のぞき込み・眺望等、地元住民との今後の関わり合いを十分話し合うのであれば、工事が続いていても並行して協定締結まで持って行けるだろう。



例えば、3週間前にほぼ解決した東灘区東谷えん堤(砂防ダム)。十回を超える話し合いで、工事請負業者との間で工事協定が結ばれ、そこに国土交通省が立ち会ってうまくいっている。協定に従って、本当に狭い生活道路をダンプカーが、しかし住民と約束した時速20kmを守って走っている。わざわざ川の上に仮歩道を設けての難工事だったが、今や六甲砂防と住民と業者は歓談し、コミュニケーションを取っている。



何より話し合ってみて欲しい。決して、悪い人々ではない。工事請負業者にあっては、仕事をしているその工事の原資は税金だという自覚を持って下されば、開き直るような態度をとることもなくなるのではないだろうか。この県による福祉センターが地域の誇りとして、「おらが町に立派な福祉センターがある」と自慢できるセンターになるチャンスなのに、もったいない。皆で、長田の鉄人よりも良いものにされてはどうだろうかと思うのである。