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2009年 10月 19日 月曜日


▲藤澤福男氏と懇談
「気になる紳士・淑女録」の第二弾。前回の冨永喜代子さんに続き、今回も89歳の、是非ご紹介したい方がおられる。その紳士とは、藤澤福男氏。現在… 日本赤十字社近畿地区代表、常任理事でおられると共に、神戸市自治会連絡協議会名誉会長として活躍されている。

ご高齢にも関わらず、たいへん公平でバランス感覚があり、私にも時々それとなくご注意下さる。「この頃、好きな事を言い過ぎて、敵を作り過ぎている」とか「世間はよく見ているから心配せず、バタバタしない方がいい」というように、心を込めて上手に諭して下さる。

自分の余生を社会の為、地域の為にと考えておられる。さすがに最近は「もう休ませてくれ、もう歳やで」とおっしゃるが、私は「仕事を辞めたら死ぬよ」とおどす。「まだ阪神御影駅のバリアフリーもあるし、阪神御影駅の南側駐輪場もある。新しい市長も作らねばならない」と言うと、氏は「まぁ、そうだなぁ」とおっしゃる。

氏とお話しすると、私も元気になる。氏に憧れ、「ここまで力を合わせて来たでしょう」と言っては、頼りにしている。私の選挙に役に立つといった事ではなく、何より、藤澤さんには私心がないから、純粋に、御一緒に仕事がしたくなるのである。


▲”丹心報國”の日の丸

▲署名された個々の先生方について教わる
実は、改めてこのブログの為にお宅に伺ったのだが、そこでビックリしたのが、お玄関の大きな額に入った日の丸。その、飾られた日の丸には、著名な方々の名前が自筆で記してあったのだ。その日の丸は、22歳で出兵する折の寄せ書きで、“丹心報國”とあり、京都大学の谷口吉彦(経済学部 亜経済政策原論)、八木芳之助(農業経済学)、高田保馬(結合定量の法則 経済学者・社会学者・社会経済学者・文学博士・文化功労者)、大隅健一郎(商法学者 最高裁判所判事)、蜷川虎三(経済学者・統計学者 元京都府知事)など、既に故人とはいえ、当時の日本を代表した学者の自筆で記された本当の宝物である。当時は有能な若者が、こうして戦場に送られ、死んでいった。氏は、この日の丸の前で、目を伏せる。

氏は立命館大学卒業と同時に、昭和17年10月学徒出陣により第2航空教育隊に応召。昭和20年9月に復員後は、兵庫県庁に勤め、昭和36年1月に退職。その後、地元の特定郵便局局長となり、昭和62年3月で勇退された。

氏は、昭和63年3月12日発行の自費出版著書「友と道」の中に
「67歳で特定郵便局局長を勇退する事になったが、大きな約束を果たさねばならない事がある。それは、学業半ばに、戦争に動員され、死んでいった同期の仲間たちで、せめてもの追憶を巻頭に揚げて、ご冥福をお祈りする。その為に友と道を出版する」
とあった。ここで言う「友」とは、戦場で散った学友であり、「道」とは自分の生きざまを表わしている。

藤澤氏は決して軍歌はお歌いにならず、戦争の話もなさらない。氏は誰よりも戦争を憎み、散って逝った友の命を惜しんでおられるのだ。だからといって、共産党に行ってもいない。きっと、仲間を無駄死にさせた仕打ちを悲しんでおられるに違いない。氏は平成14年3月12日に「続 友と道」を上梓された。その間、馬車馬のように地域の為に働き続けられた。自治会・選挙管理委員・神社・県政懇談会・だんじり・立命館大学関係等など、65歳から、文字通りよみがえった青年の如くボランティア活動をなさってこられた。何かにとりつかれたように、人々の為に尽す第二の人生に入られたのだ。

特に、あの忌まわしい「阪神淡路大震災」でのご活躍には、めざましかった。圧巻は、御影の43号線以南にあったLPガスのタンクが爆発する危険が発生した時のこと。幸いにも未然に防ぐ事が出来たのだが、十万人以上の人々が避難させられた。その際、誰もが救助を放棄しての避難を求められたため、恐らく、相当数の人々が、救助されず放置されていた、あの件である。氏は、市民への謝罪もなくぬけぬけと再開するLPガス会社に怒った住民と議員の要請を受けて、区長立ち会いの元に、今後の事を含めた覚書を締結させたのである。それは、見事な手腕であった。

その時、傍らで拝見した様子を思い出すと、氏は本当に冷静に事態を分析され、今後が大切と会社に説得しておられた。そのお姿は「凄い高齢者」で、大会社の社長もタジタジ。やはり、戦争をくぐった男は違う。これも、若くして戦死されたご学友らが、氏の肩を押しておられるに違いない。

私は藤澤氏から、さらに多くを学びたいと、いつも思っているのである。