Skip to main content.

2022年 12月 02日 金曜日

良く晴れた青空に、大きく美しい蝶が羽ばたいてゆくのが忘れられないのは… 沖縄の「のじぎくの塔」と「島守の塔」で11月29日に行なわれた、慰霊祭でのこと。日帰り出張で大変だったが、市会事務局の神谷課長に助けられ、良い天気にも恵まれた。暑くて、まるで泳げそうな気温だと思っていたら、28度もあってびっくりした。

のじぎくの塔
「のじぎくの塔」は、兵庫県から出陣した兵士たち、沖縄戦で戦死された3037名の御霊を祀る為に、第38・39代兵庫県知事の金井元彦氏によって、昭和39年6月13日沖縄県営平和祈念公園に建てられた。一方、「島守の塔」は、沖縄戦当時の県知事をはじめ死亡した県職員453名の慰霊碑として、昭和26年6月25日に、地元遺族会の人々や関係者の方々の手で建てられたものだ。

島守の塔
私には、この慰霊祭にどうしても出席したい二つの理由があった。

一つは、3037柱の中には神戸市の方も605名含まれておられるから。もう一つは、激戦の最中に国から命じられ、第27代沖縄県知事の任を受けたのが、兵庫高校の大先輩の島田叡さんだから。これはもう、殉死にも似た命だったと、私は思う。それでも、わずか五ヶ月の就任期間であったが、島田先輩は沖縄県民を愛し、敬意をもって島民の人々と共に戦い、最後に天皇陛下へ「島民はよく戦った。時が来ればお褒めの言葉をかけてあげて欲しい」と電報を送られたそうだ。

写真 参列された方々
この島田叡先輩の物語が映画化され、今夏、全国公開された。その製作費の件で、兵庫高校卒の市会議員や神戸市職員の方たちと幾ばくかの寄付をした事もあって、現在の島民の思いを知りたかったのだ。慰霊祭には、齊藤兵庫県知事、現地の玉城知事、地元の市長や遺族会の人々の他、両県の県会議員も約15~6名、およそ80人ほどが出席していた。

初めに「のじぎくの塔」の前で、兵庫県遺族会の北浦基広会長の弔意の言葉があった。その中の「故郷の兵庫県に戻りたかっただろうに」との慰めの言葉に、胸を打たれた。次いで、知事が弔意を述べ、献花が行なわれた。私は県会議長の次に花を捧げた。

写真
神戸市からの出席は福祉課の係長が来ておられるだけで、少し寂しかった。係長が悪いのではない。県とのバランスが合わないように感じられたからだ。関係者に聞くと、「神戸市に『今年は50周年でもあるので』と申し上げたのですが」との事だった。

続いて、歩いて五分ほどのところにある、島田先輩の「島守の塔」の慰霊祭に移った。驚いた事に、立派な記念碑が建てられ、兵庫県立兵庫高等学校と現地の沖縄県立那覇高等学校が友愛会として親密に交流があるとの事で、那覇高校の生徒たちが動画を撮っていた。ふと気づいたのだが、この慰霊祭には沖縄県知事はいなくて、副知事さんが来られていた。やはり島田知事の映画や色々ある中での配慮があったのかもしれない、と私なりに思った。

私は、齊藤兵庫県知事の慰霊の言葉にも感動した。兵庫高校という校名も入っていたし、知事としての先達への敬意に、平和を願う強い思いも込められていて、美しかった。慰霊祭の後、私は齊藤知事に、その弔意文を兵庫高校にお納めくださるよう、お願いした。お世話下さっている兵庫県議会自民党幹事長、須磨区の伊藤県議にも奨めて頂き、快諾が得られたので、兵庫高校には私が届ける事になった。

放蝶したオオゴマダラ
この件で中心的な役割をして下さった、那覇市に住む嘉数昇明氏には、特に深く感謝したい。その嘉数氏の名刺には、【至誠の人(戦中最後の県知事)島田叡氏事跡顕彰期成会 会長】とあった。「島田知事は、沖縄島民の心が分かる方だった」との会長の顕彰の言葉の最後に、沖縄県の蝶である『オオゴマダラ』の放蝶が行なわれたが、心に焼き付く、とても良い場面だった。

この時、お世話になった元兵庫県知事の井戸敏三氏と隣り合わせになったので「神戸市は、係長さんだけの出席で申し訳ない」と言うと「いやいや、久元市長もこちらに来て下さって、よくやって下さっていますよ」との仰せで、ホッとした。

そう言えば、久元市長は兵庫高校にも行って下さったし、確か本会議か総括質疑の中で、島田先輩の事を「公務員として立派な方だと思っている」と発言されたのを覚えている。久元市長は、いつも公務員としての心意気を持っていると、そう思ったのだった。
写真