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2022年 06月 21日 火曜日

多くの思い出と逸話がある石井一先輩の葬儀が、神戸市中央区のモダン寺院(本願寺神戸別院)で… 御令室の知子夫人と、長男で西宮市長の石井登志郎氏を喪主に、去る6月18日2時から執り行われ、私も、市会議長・後輩という二つの立場で参列した。

各党の国会議員を始め、兵庫県知事や神戸市長といった、多くの方々が参列されていて、葬儀委員長は末松信介参議院議員だったが、私は古参なので、理解できた。まだ議席を持たない頃、石井先輩の神戸事務所長で苦労されたのが、末松大臣の御尊父だったからだ。

石井先輩は立憲の重鎮であるが、集った国会議員の大半が自民党だった。

私は、石井先輩がアメリカから帰国して国会議員に志を立て、甲南関係者を手始めに草の根運動をやりだした頃からのお付き合いだ。私たちは夜、兵庫区の神戸駅に近いご自宅のマンションに集っては相談し、運動を進めていた。その時のリーダーは平野昌司先輩で、皆、まるで坂本龍馬を送り出す土佐藩のごとき意気込みだった。

良く知られている1977年9月の「ダッカ日航機ハイジャック事件」で当時運輸政務次官だった石井先輩は、日本国政府派遣団長としてハイジャック犯との交渉に当たられた。その後の選挙で、事件当時の田村元運輸大臣が応援に来られた際、私はボランティアで、運転手を兼ねた秘書をしていた。「君だけに言うけどな」と前置きして話された内容は傑作だったが、今まで長い人生で、他の誰にもしゃべったことはない。このまま㊙にしておく。

写真 葬儀祭壇
参列された方の誰もが、そんな思い出と悲しみを感じていたと思う。先輩の、いつまでも夢を追う少年のような一面に触れ、好きになったり許したり、笑ったりしたものだ。私は、ライバルだった砂田重民先生との性格の違いを楽しんでいた。

その両者がたった一度、心から力を合わせた事があった。神戸沖国際空港の建設を拒否した、宮崎市長への挑戦だ。結果、その夢は敗れはしたが、勝負は真剣そのものだった。今頃、二人は仲良く、天国で神戸の将来や国家の安泰を論じていられると思う。

ジャズが奏でられ、デキシーランドジャズを演奏するバンドが遺族の退席を先導するという、楽しい石井先輩らしい、モダン寺院の葬儀だった。合掌。