Skip to main content.

2022年 06月 10日 金曜日

私は、議会もその歴史から学ばねばならないと、常々思っている。議会の賢さは、常に問われ続けられねばならない。議会も… 責任を感じる必要があるのではないか。

そう思ったのは、好評を得ている東灘区自民党議員団の月一回のライブ配信で、ずっとひっかかっていた事があるからだ。

それは、神戸空港にまつわる逸話。若い議員から神戸空港について、宮崎市長が反対してダメになった経緯を聞かれたので、私が先輩から聞いた「議会で一票差で負けた」という話を教えた。だが、それが実は、大間違いだったのだ。

調べてみると、昭和47年3月市会で26対42で否決されていた。それは、神戸空港に反対する請願についての、議会の意志だった。これを受けて一年後の3月市会で宮崎辰雄市長は、
「私は、議会の決議を尊重するつもりであります。反対せざるを得ないとしている。しかし、私は公害の生じる空港には反対であると申しているのであって、公害があるかないかは、誰が説明するのか」
と訴えていたのだ。

私は、この神戸にとって悲劇の議会には、まだ登場しない。なにしろ、初当選はその五年後。だが、まだその余韻は残っていた。今回経過を調べてみて、宮崎辰雄市長の無念の叫びを再び感じて、身震いした。彼は明らかに、議会の英知を求めて訴えていたのだ。

後日、宮崎市長は「私の対応のまずさが招いた最大の仕残しであり、一世一代の不覚であった」と語っている。まさにその通りで、なぜ彼は、議会の反対を押し切って進めなかったのだろうか。また、議会を解散させ、市長の意思を示して市民に働きかけなかったのか。公害の無い空港を造ると主張すれば、理解されていたはずではないか。

私は、今の関西空港が神戸にあれば、神戸は、大阪を凌ぐ大都市になっていたと思う。彼には、その勇気がなかった … 選挙に脅えていたのだろうか。

それでも彼は、改めて小さな小さな神戸空港を造ろうと決心し、昭和57年の市会で「私は、神戸空港の事を一回も思わない日はなかった」と、再度神戸空港建設を議会に訴えた。その時、私は議場で大きな大きな拍手をした。

神戸沖大空港の実現が消えたのを、宮崎辰雄市長一人の責任に押し付けて良いものか。当時の議会は、どうだったのか。英知と先見性を持っていたのか、再考する必要があると思ったのだ。今ここで、幾ばくかでも、宮崎辰雄市長の名誉が回復できればと願っている。