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2022年 02月 01日 火曜日

このブログは長くなってしまうが、仕方がない。酒粕では名門の… 小林春吉商店の小林 啓二 取締役会長が、87歳で他界されたとの連絡を、1月31日に現社長から頂いた。お知らせ頂いたのはありがたい事だけれど、本当にガックリきてしまった。

現社長も変わっていたと仰っていたが、確かに変わっていた。だがその「変わり者たりよう」が、私は好きだった。変わっていたといっても、読書しながら歩く二宮尊徳と言われていたり、銀行に行って新札の件でケンカしたり。レストランでは主賓を間違えて配膳すると注意したり、喫茶店でコーヒーの味を指摘したりと、逸話は数多く、お店から断られることも少なからずあった。

一方で、気に入った店主や友人は大切にし、そのお店のために最大の協力をされていた。毎年お正月に大入袋を各店に配ってまわるなど、粋な振る舞いもされていた。

写真 ありし日の小林さん
私は、小林啓二さんとはよく気が合った。中国嫌いで、台湾が好き。映画好きで、役人嫌い。二人でスナックに行くと、軍歌をたくさん歌ったなど、思い出は山ほどある。

私と意見が衝突するのは、市長のことだけだった。彼は、歴代の市長が嫌いだった。委員会での活躍や、事務所での役人との激しい議論を、目を細めて聞いて下さった。役人の無責任さと、市民より上司や仲間をかばう役人根性を指摘すると喜ばれ、以来、小林さんだったらこう言うだろうと思うようになっていた。

小林さんは同志社大学卒で、映画部で活躍された。65年前の同志社大学卒だから、颯爽とされていただろうと思う。私が提案し、国旗の問題で金美齢さんを講師に招いて自民党で、市民を巻き込んでの勉強会をした時、小林さんは大変喜んで、通暁される日本酒でえり抜きの古酒を、金美齢さんにプレゼントして下さった。

神戸灘の酒による乾杯を推進する条例を作った時も、本当に力になって下さり、成立を喜ばれた。だから、私がかつて白鶴の嘉納正治さんや菊正宗の嘉納毅六さんや福寿の安福幸雄さんに頼まれて、灘の酒を船で江戸へ運ぶ儀式をもう一度復活させる約束を40年かけて果たしたのを報告出来なかったのは、くやしい限りだ。

小林啓二さんは海外に出られたことがなかったが、それでも、世界をよく知っておられた。それは、膨大な読書によるものだろう。かつて、死ぬまでに絶対二人で台湾に行って、故宮博物館と日本人が残した多くの業績を見ようと語り合ったが、叶わぬ夢となってしまった。

同じく小林啓二さんが好きだった、東光商会の志水利達会長や、入退院時にお世話した足立ボランティアと三人で、尽きぬ思い出を語り合いたいと思う。
写真
議長就任の時、お祝いにお越しくださった小林啓二さん(左)、足立ボランティア(中)と私。
議長室にて