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2021年 11月 24日 水曜日

多くの方々の善意の中、船出した「樽廻ヨット」。その日… 11月23日は、私にとって大変嬉しい日となった。私が3年かけて政策提案をしてきたひとつの事が、実現したのだ。

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「日本一の灘の酒を、江戸へ樽廻船(たるかいせん)で運ぼう」というのが、それ。出発の式典の中で、提案者としてスピーチの場があり、私は振り返って
「単純なようだけど、この行事は多くの文化と心と愛が詰まっています。私は約40年前、先々代の白鶴酒造の嘉納正治会長、菊正宗酒造の嘉納毅六会長、福寿酒造の安福武之助会長から何度も『安井さん、灘五郷の酒が日本一になれたのは、江戸の人々の7割が飲んで下さったからで、その酒を樽廻船で明治14年頃まで運んでいたが、途切れてしまった。かつて北前船を利用したが、海が荒れると彼らはまず、酒を海へ放り出した。そこで、酒造家が集まって酒専用船を造ったのが樽廻船で、酒造家の意地と知恵の実現で、日本一になった。死ぬまでにもう一度、御影郷から船で運んで、江戸の方々へのお礼がてら、灘の酒を思い出して欲しいので、実現すると言われていたが出来なかった』というその言葉がずっと、私の頭に残っていた」
と語った。実は、それと相前後する二年前、灘の酒にまつわる「伊丹諸白」と「灘の生一本」が、文化庁により日本遺産に登録された。コロナ禍の最中であったが、市役所前のフラワーロードに「祝 灘の酒日本遺産登録」の旗が並んだが、ただそれだけだった。

辛かった。何か責められているような気持ちになって、この企画を後援会の高嶋良平会長に相談すると、実現すれば喜ばれると、勧めて下さった。

各方面に相談するため、私は1年間駆けずり回った。まず、船だ。海王丸か日本丸を考えたが、ダメ。予算は800万円位だったが、コロナでダメ。困って、かつて灘の酒で乾杯条例を政策提案した安達和彦議員・自民党神戸市会議員団団長に相談し、市の行事として行っていただく政策提案を二人でしようという事になって、経済港湾常任委員会で提案した。

当局も提案を受けて検討に入り、なんと、阪神間日本遺産推進協議会が主催者となって、進めて下さることになった。

船は、安達和彦議員が顧問をしている須磨ヨットクラブのヨットにお願いする事となり、安達議員が交渉して、大阪・メルボルンヨットレースに出場されるなど、世界的なヨットマンである山下義秀さんと中路康行さんが6日間かけて、江戸に届ける事になった。そうは言っても、当局のご苦労には頭が下がる。とうてい、私では出来なかったと思う。

23日、出発式は好天に恵まれた。久元喜造市長は挨拶で、「提案者の安井議員に感謝する」とまで言って下さり、嬉しかった。「私は灘の酒が好きで、昨夜は菊正宗だったし、この前はロックで5日間続いている」と、笑いをとって下さった。良い市長だ。この人でないと、今日は実現していなかっただろう。

次いで、西宮の石井登志郎市長が、「世界に灘の酒を売るきっかけにしよう」と呼び掛けた。

大関酒造の長部訓子社長が私にそっと「灘の下り酒は、文化です。私たちの5代目が、樽廻船のために今津の灯台を造ったのです。西宮にも、安井さんのような市議が欲しい」と、おだてて下さった。長部社訓子社長は、28日に江戸で、船を待って下さると仰って、さすが大関だと思った。

嘉納健二理事長も、下り酒の歴史を語って下さり、皆、良く理解できた。江戸では、甲南女子大学出身の小池百合子東京都知事は出席できずメッセージを用意され、末松信介文部科学大臣が出迎えて下さる。この件は、同志である岡田ゆうじ議員のお陰だった。

山下艇長は、「必ず江戸へ、無事届けます」と言って下さった。今頃、下り酒文化と酒造家の意地と愛を乗せ、満帆の風をうけて、太平洋をひた走っていることだろう。
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集合写真