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2021年 09月 17日 金曜日

たった一時間の会話だったが、「今日は楽しかった」と目を輝かせておられたのは… 96才の大島太郎さん。その日は、私にもどこか嬉しい日になったというのは、楽しく、興味深い会話のおかげ。

今のコロナ禍の中でも、きっと、時間が出来て、持て余されるのか、久しぶりの方が、時々事務所においで下さる。

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先日は、朝のラジオ体操でお会いしていたのだけれど、今は私がコロナウィルスのことから遠慮しているので、実に二年ぶりでお会いすることになった、大島太郎さんが寄って下さった。

大島さんは、およそ76年前に西宮の川崎重工業で、日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」のプロペラを作っておられた。最高時速590キロでアメリカの戦闘機に追いつかず、悔しかったと言う。

二十歳で陸軍に招集され、青森の弘前、第八連隊で、わずか四ヶ月で終戦となったが、多くの仲間が亡くなったり、捕虜となった。アメリカ軍の捕虜になった友人と、ソ連軍の捕虜になったのでは、天と地の差があった。

アメリカの方は、衣服も食料も与えてくれ、時には映画も見せてくれる。こんな楽をして最期に殺すのでは … と恐れていたら、「ジュネーブ協定がある」と説明を受けて、安心されたそうだ。一方、ロシアは皆さんの知っての通りだった。今、振り返って「まったく、人生は運だ」と語られる。

「川崎重工業で、韓国人の徴用はしていなかったのですか?」と訊ねてみたら、「していた」と答えられた。3~4人の韓国人、16~7才の青年と働いていたが、凛々しく学問もあり、「自分たちのほうが勉強になった」と言う。

ある日、その一人を大島さんの家で接待したが、その韓国の青年はたいそうな名門の出だった。大島家の食糧事情の内容も違っていたというが、大変喜んでくれて、良い思い出になっただけに、今の徴用工問題が理解できないと仰る。「私たちが所々で、違っているのでしょう」と言うと、大島さんは、「それもまた、運ですね」と笑われた。

最後に、事務所の足立真澄ボランティアに握手を求められた。気楽に応じる足立さんが「天使に思える」と仰る。やっぱり、それも運 … 幸運なのだ。
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