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2009年 09月 06日 日曜日

「深江文化村」の記念プレートが東灘区深江南町1丁目にある神楽町公園に建立され、午前10時からのオープニングイベントに列席した。

甲南大学同窓生の西土井敏君から深江文化村を町おこしに使いたいという相談を受け… 区役所で非公式に懇談。その際に同席くださったうちのお一人、井野瀬久美恵 甲南大学教授の、「宝物は身近にあっては分からない、周りから見るとその光が見える」との言葉に、目からうろこ。調べてみて私も、その大切さを悟った。


▲記念プレート
明治の末期から昭和の初期にかけ、面積3,000坪の敷地の中央に大きな芝生庭園が造られ、その周りに立派な西洋館が13軒、囲んで建てられた。西洋館には9カ国13家族の文化人が暮らした。その中には、ロシア革命から逃れてきたルーチンやメンデル、さらにはヨセフ・ラスカ(日本初のオーケストラである宝塚交響楽団の指揮者)等が居た。深江にはそうした方々以外にも、多くの外国人が住み着いていた。そうした文化人の方々の知識を求めて、貴志康一氏・山田耕筰氏・小磯良平氏・竹中郁氏・近衛秀麿氏・朝比奈隆氏等の、歴史上日本を代表する文化人となられた方々が、長期滞在して学ばれた。文化ハウスと呼ばれたその滞在所は音楽による国際交流の場となり、当時の大正モダニズムにおいて、関西一円にとどまらぬ基礎になった ── そんな地が、東灘区深江にあったのである。

西土井君と区役所や関係者の努力で、今回のプレート建立の運びとなった。13軒中現存する4軒のうち「冨永家」と「古澤家」の方や、当時の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズと組んで3,000坪のデベロッパー役を果たした吉村清太郎氏のお孫さん。加えて、当時を知る人々もご列席くださった。忘れてはならないのは、この文化村を研究し続けた古娘グループの人々も出席されたこと。晴天の下、皆さん清々しい笑顔で除幕された。

同式典で、西土井君から簡単な経過報告を求められた。私は議員として地域にこのような素晴らしい宝物があった事を喜び、加えて、たった4軒とはいえ、守り続けて下さっている「冨永家」と「古澤家」の方に、心からお礼申しあげた。

私の苦い思い出は、あの著名な「谷崎潤一郎」が過ごした岡本の和洋折衷の屋敷。

持ち主の方になんとか市の文化財指定を受けてもらうようお願いした。持ち主の方は立派な方で「私の人生はこの家を守る事です」と、釘一本打たさずに個人で文化財を守って下さっておられた。それが、震災で破壊され、この世から消滅した。もう少し強くお願いしていたら、文化財として公金で再建できたかも知れない…。


▲皆さんで記念撮影
今回の流れでは「冨永家」も「古澤家」も、国登録有形文化財の指定を受けて下さっている。これでひとまず天災などについては安心。私は「文化財指定を受けて下さった事に感謝します。そして、今後はこれら文化財の近くにマンション等を建てさせないよう、地域が文化財に相応しい環境の維持に配慮する努力が求められます」と申し上げた。

井野瀬教授の「深江文化村」について、深江会館にて午後2時から講演会が催され、約200人の人が聞き入った。貴志康一氏が作曲した曲が流されるなどして、人々はそのメロディに魅了された。井野瀬教授の講演は、濃い内容なので、また日を改めてご紹介申し上げたい。