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2009年 08月 23日 日曜日

平成7年1月17日の震災の時「助けられるべき若者がたくさん死んだ。何人の人間が見捨てられたか」─ その怒りの発火点は、食通のKさんだった。

▲今も当時を昨日のように思い出すKさん
今日、ふらっと事務所を訪ねてくださったKさんとぶり返した話に、私の記憶もよみがえったのだ。

震災後、国道43号線以南の地域に、ガスタンクが爆発する恐れがあるとの情報が流れ、その地域の人々やJR以南の人々に避難勧告が出た。この避難勧告のため、救援活動をしていた人々も手を止めて避難したので、救助されるべき人々が見捨てられた。その中の一人に、Kさんの知り合いの、地方から進学していた神戸大の学生がいた。

地震後、ガスタンクが再開されることに怒ったKさんは「危機管理をしていなかった事について、お詫びを新聞広告で出せ」と迫った。

当時私も、明らかに危険物であるにも関わらず耐震構造でなかったと指摘して、怒った。同じ時、実は東灘区長も怒っていた。この会社の支店長が再開のお詫びに行った時、区長室への入室を断ったと聞き及んでいる。歴代の区長の中で最も評価の高い、骨のある区長だった。

続いて私は、連合自治会長にすぐに再開させる訳にはいかないと訴え、Kさんもお詫び広告を出すべきと主張し続けた。交渉の結果、新聞に謝罪広告を出すと同時に、区民へのお詫びとして区に1500万円を寄付して、一応の決着を見たのだった。

この件の発火点はKさんだった。Kさんは振り返ってつくづくと、亡くなった助けられるべき若者たち、見捨てられた人のことを語られた。私もそう思う。危険物を扱う会社でなくとも、立地周辺に企業責任がある。監督官庁にも、その立場ゆえの責任がある。加えて、周辺地域の住民への「思いやり」は、法「人」として、コンプライアンスを越えて担って然るべきところなのである。