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2019年 08月 20日 火曜日

今は時代が違う事を知りつつ、明治の頃から大きく変わった… 日本人の精神。人としての徳を支える基礎として、新渡戸稲造が宗教の代わりに武士道があると言った、その頃とはあまりにも掛け離れてしまったと、そんなことをつらつら考えてしまったのは、去る8月16日のこと。地元東灘区を一望に見下ろす保久良神社で催された、祖神祭に参加した時だ。

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古代祭祀の遺蹟地と認められる保久良神社の祖神祭は、祖神が常夜灯として大阪湾の海上平安を願い、金鳥山を選ばれてかがり火を灯されたご意志を、麓の北畑村の天王講の人々が継承し、交替で“灘の一つ火”の点灯を守り続けてきた、その起こりの祖神様、大歳御祖神に由来する祭りだ。

地元の方々約60人が集って儀式が行われたが。ご高齢の方々が多い。そこで、私が先日書いた水師営の歌と産経新聞の学芸記事についてお話しすると、76才の魚本さんは「私も憧れて、水師営の会見の小屋を見に行きました」と仰るし、89才の中西さんには、「この神社には「水師営」の歌にある、「庭に一本 棗の木」のナツメから枝分かれした木が植樹してあって、枯れてしまったけれど、確か立て看板があったはずだ」とお教えくださった。

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伺った話をたよりに境内を探す、と…あった。確かに、あった。

草木が繁り蜘蛛の巣がはる中に木札が立っていて、高級副官だった地元塚田清市陸軍大佐が、乃木小社を建てられ、乃木将軍が現地から持ち帰ったナツメの木を移植された。そのナツメを再び、枝分かれとして、ここに移植したのだと記されていた。

私は、不思議な縁を感じると共に、この地区の古さと、乃木将軍がいかに国民的な英雄であったかを思った。

日本には、明治天皇陛下と殉死する武人が、つい140年前にはいた。戦中生まれで軍国の母に育てられた私は、戦争を美化するなどということではなく、しかし何か水師営の会見の歌に「男」を感じてしまう。猛暑の中、様々な思いが交錯し、地元の有力者の方に、あの立て看板を撤去などされぬようお願いしたのだった。
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