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2019年 06月 21日 金曜日

会場に飾られた展示の中には、ピッケルや磁石があった。そっとピッケルに触れると、記されていた「我が人生、おもろかったで」が、声として聞こえたように思えた。次の瞬間… 「安井君、頼むで!」と、はっきり聞こえた。

それは、元甲南学園の理事長(平成3年~平成10年)であられた、小川守正さんを偲ぶ会でのこと。

6月15日、土曜日に平生記念会館で行われた偲ぶ会は、氏の97才の生涯を振り返り、思いを馳せる機会となった。私は、特に親しかったし、小川守正先輩がこよなく尊敬された平生釟三郎氏について、私もその意志の一部を受けついで世間の人々に平生釟三郎氏の精神と偉大さを広めようとしていますよと小川守正先輩に報告したかったので、出席したのだ。

「小川先輩。やっと、平生釟三郎氏の作った甲南病院も85年ぶりに現地建替えになります。私は、市と様々な件で交渉役となり、小川先輩の役に立っていますよ」と申し上げたかった。

小川先輩は、口を開けば平生さんの事で、いつも平生さんの化身のようだった。平生さんに関する著書も、沢山上梓された。代表的なものには、「昭和前史に見る武士道・平生釟三郎伝」「平生釟三郎・世界に通用する紳士たれ」(上村多恵子共著)他「平生さん物語」がある。

甲南病院は、いつも経営に難儀されていたのだが、阪神淡路大震災で更に追い打ちがかかった。いろいろな方面から、甲南病院が売りに出されるという話が、耳に入った。そんなある日、私は小川先輩に呼ばれた。「実は、金融筋が買収の情報を流しているようだ。私は、絶対に買収されないように頑張るが、万が一に備えて先手を打ちたい。そこで、君を信じて言うのだが … 例えば神戸市と川重、三菱やトヨタ自動車など、日本の超大手なら相談に乗ってもいいので、内々で裏面の窓口になって欲しい。但し、甲南病院の名は消さない事と、平生さんの精神を受け継ぐ事が絶対条件だ」と言われて、大役に身が縮んだ。

私は秘密裏に、まず神戸市に当たったが、ダメ。大手のトップに当たったが、私が信用されなかったのか、そこもダメだった。そのうち、東京の大手病院や医療関係者、ブローカー等が情報を聞きつけて、およそ20社位だったか、私に群がって来た。私は「そんな窓口ではない」と言ってトボケ続けた。

小川さんには電話で報告したが、私が防波堤になっていた。今思えば、うまく使われたのかも知れないが、それでよかった。誰かが、その役をしないといけない時期だったのだ。あの頃のことはだから、忘れようにも忘れられないでいる。

何とか最悪の時期をくぐり抜けた病院だが、大変な事態には変わりがなく続き、今は具 医院長自ら、一線で身を粉にして頑張っておられ、やっと単年度で黒字になったが、累積赤字と大改造費(約250億円)との戦いが続いている。

私は、小川先輩が甲南病院の理事長を退任される時に、またお会いしていた。「これからどうされますか」と聞くと、女性や子供たちが気楽に行ける山の案内書をつくって、山歩きを楽しむと仰った。実は、先輩は大変な登山家で、日本中の山はもとより、海外でも、台湾の玉山(3,952m)やボルネオのキナバル山(4,095m)、ケニアのケニア山(5,199m)など、多くの山を制覇されていたのだった。先輩もまた、ロマンの人だったのである。

先輩、甲南病院のことは、はい、分かっていますよ。ですから、どうぞ、安らかに。

写真 しめやかに故人を偲んだ会場