Skip to main content.

2018年 12月 27日 木曜日

確かに遅い ── しかし、古代からある弱い者いじめの業は… 人類の進歩で、少しづつは減る方向に進んでいると信じたい。

そう思ったのは、以前このブログで紹介した田中幹夫弁護士に、神戸市会議員で練った「神戸市こどもを虐待から守る条例」の案を送った、その返事を読んだ時だ。

田中弁護士とは40年前、何回か市長にも直接、条例をつくるべきと直訴したが実現に至らず、やっと議員が立ち上がった。そして今の久元喜造市長も応援して下さって、条例案ができた。それを田中幹夫先生にお送りすると、先生から返信があったのだ。

そこには、「条例は、立派なものです。もし小生がお勧めした時につくっていれば、法律を超えたものとして、天下に絶賛されたでしょう。惜しかったですね。40年前、児童虐待問題は、今ほど深刻ではなかったのですが、小生の予言は不幸にして当たってしまったのです」と書かれており、先生の著書の巻頭言が添えられていた。「子どもたちは待てない」と題したその金八先生のような弁護士の文には…

幼い子どもの死ほど悲痛なものはない。平和な家庭の幸福に浸っている人たちには親が自分の子を虐待し、殺めるなど想像するに恐ろしいことで、信じられない。しかし、おぞましい子捨てや、子殺しの事件は人間関係が乱れてきた近年になって増加したとも言えない。神話や民話や、童話の史書にも、子どもへの虐待がある。考えてみれば、人類は罪深い業を背負いながらも、弱い者を切り捨てることから、慈しみ育てる文化に作り上げ、少しずつ確実に社会生活上の幸福を追求してきたようである

とあり、

それにしても、何故にこうも立法は怠慢で、行政は怯懦(きょうだ)なのであろうか。

と、嘆きつつも、「福祉が崩壊する流れの中でも、国民は東日本大震災に直面して、人間的感性を示した」として、「まだ、希望はある」とあった。

確かに、私たちの「神戸市こどもを虐待から守る条例」の議員提案は、40年遅れた。それでも、政令都市の中で5番目なのだ。確かに、遅い。特に、子供たちにとっては。それが、心痛く、悔しくはあるが、人が進歩するものなら、減らぬはずがない、減らせぬはずがないではないか。

今は、それを信じて、来春本会議での決定から条例制定まで、頑張ろうと思う。