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2018年 07月 27日 金曜日

彼女の事を私が理解できるのは、軍国主義で育った両親に育てられた、同じ世代だからだろう。国家や他の人々の犠牲になるのが美徳だと、信じていた。私の親は… 私が大きくなったら陸軍に入れようと考えていた。彼女も、そのように育っていたのではないかと思う。

石原慎太郎氏による碑文には、「自らの命のかけがえに 人は尽くすことほど崇高な行為はない。人間の真の勇気と美しさと尊さがある。紅蓮の炎に消えた一人の若い娘が自ら明かしたものは、それだった」とある。彼もまた、同世代だ。

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彼女とは、麻畠美代子さん。碑文とは、六甲山頂のみよし観音にまつわるもの。7月に一般財団法人住吉学園(神戸市東灘区)を訪問した時、「安井さん、知ってる?」と、竹田統理事長から一冊の古い本を頂いた。「六甲山のあの上に」というその本は、逵原ミレイ 著、発行者 榊原眞理子。読んでみて、驚いた。

昭和39年2月18日午前8時22分、大阪国際空港(伊丹)から飛び立った日東航空(後に日本エアシステム)のおやしお号、グラマン マラード水陸両用旅客機が尼崎市の水田に墜落した。客室乗務員だった麻畠美代子さんは、墜落機から乗客らを次々と救出し、最後の一人を救出すべく燃える機内に入っていったときに、爆発。「お母さん」と叫んで殉職されたたという、実話である。

麻畠美代子さんは、京都の西陣織ネクタイを作られていた麻畠弥一郎さんの三女として生まれられた。20才で世界ビューティ・コンテストの「準ミス・ニッポン」に選ばれ、21才で亡くなられた。この見事な殉死は、当時ほとんど報道されず、ある週刊誌が取り上げただけだった。

母親に「私は、スチュワーデスの仕事に生き抜きます」と言い、ある時は、他の飛行機事故で亡くなられたという報に接しては、遺族の方に申し訳ないと泣いていたそうだ。

まるで花火のように消えてしまわれた麻畠美代子さんだが、この美談は光を放つようになる。その話を知った、三重県に住む交通遺児の坂井 誠君と進君兄弟が「みよし観音」を六甲山上に建てようと願ったのをきっかけに、「みよし観音建立奉賛会」が発足し、全国に広まった。

かくて、没後6年目の1970年の夏、みよし観音が建立され、毎年8月1日に、大空のまもり祈年祭が行われている。彼女は、徳島県の宝田寮という施設の子どもたちに託されて、ホタルを見た事がないという東京の同じような施設の子らにホタルを送る際に、そのホタルを飛行機で運ぶ役割を担い、「ホタルの天使」と言われ、慕われていた。彼女自身、それを喜んでいたそうで、森繁久弥さんの詞碑にも、ホタルの天使と刻まれている。

では、なぜ竹田統理事長が本をくださったのか。実は、みよし観音像のある土地は、住吉学園のものだったのだ。学園は会議を開き、「知らなかった事を残念に思い、今年度から地代を無料にし、これからはみよし観音の行事に参加する」と決定された。この胸を打つ計らいに、心から拍手したい。