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2018年 07月 03日 火曜日

足立ボランティアと、「叙勲制度には、見直しがいるかなぁ〜」と語り合ったのは… つい先日のこと。だが、調べて見ると、そうは言えどもこれが存外に難しいと、分かってきた。

世の中には、年がいく程、人の好き嫌いが激しくなる人と、何でもかんでも許す仏様に近くなっていく人とがおられる。又、どちらも兼ねている方もある。

私は、どちらにもならないよう、いつも気にしているけれど、昔からどうしても嫌いなタイプがある。自分の肩書を名刺一杯に書いて、口頭で説明されるような方だ。ある方は、その上に「保護司もやってます」と口を添えまでされる。そんな方に限って、○○議員も○○議員も知ってますと、議員の名前を並べて下さるから、笑ってしまう。それがどうした。私は必ず、「その議員に頼んで下さればよろしいのでは」と答える。

どうしてこんな話を書いているかといえば、実は、叙勲にからんで、嫌ななタイプにまつわるとあることを聞いたからだ。飲み会に行ったら、天皇陛下から叙勲された某氏が、大きなカバンを携えていた。なんだろうと思っていると、中に勲章と表彰状が入っていて、皆様に自慢げに説明したという。二次会の飲み屋さんでも、飾ったそうだ。

その方は確かに、素晴らしい働きぶりだったのだろう。立派な功績がおありになったのだと、そう思いたい。だが、叙勲されずとも、世の人々の為に、無官・無報酬で頑張っている方がたくさんおられるのを、私は知っている。そんな人に限って、名刺すら持たれず、いつもニコニコと笑顔で優しく、控えめで … そんな方の前では、私は深く頭を下げる。「貴方は一生、天皇陛下に呼ばれる事はありませんが…」と言うと「ハァー?」と仰る。叙勲など、ハナっから念頭にないのである。

立派な功績にご褒美があるのは、それはそれで良いことだと思う。根本では、純粋に、様々な分野で公に尽くし続けられた方々であり、或いは、殉職などの危険を顧みずに世に奉仕された方々だ。でも、叙勲されるのを目標に頑張る人など、まずいない。それだけに、客観的に叙勲に値すると審査の末に決定された方々はたいてい、思いがけないこととして周囲とともにその喜びが一入なのは、良く分かる。

だが、栄典法案は、過去国会にかかりながらも審査未了、廃案となってきた。基本的事項を定めるだけでも、それほど、どうでも良いようでありながら、案外難しいものなのだ。

今の授与基準は閣議決定によるのだが、叙勲自体は天皇陛下の国事行為。いずれにしても、くださる陛下にご迷惑などかからぬよう、頂くならば、厳に謹んで我が身を正さねばなるまい。実るほど頭を垂れる稲穂かな、というではないか。