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2017年 04月 04日 火曜日

私はその像の手に触れ、温かみを感じていた。喜んでおられる、と思った。それは… 御影公会堂の嘉納治五郎資料室のメイン、嘉納治五郎像のこと。

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4月9日のオープンに向けて、御影は今、町を上げて準備をしているところだが、像は3月29日朝9時に北海道旭川市から搬入されることになっていた。私と足立が、御影公会堂で待とうと8時半に行ってみると、すでに車で到着しており、御影公会堂の駐車場で待っておられた。

この、嘉納治五郎像をつくるに当たっては、著作権等の問題も絡んで、区役所ではご苦労されて、関係機関にあたって下さった。実は、ある美術館が権利を持っておられるので、講道館も灘高も、かなりの額を支払ったそうだ。それに、型枠の問題もあった。型枠が何回も使用されているため、御影がお願いしても型枠が使えるかどうか…むしろ難しいのではないか、との返事だった。

だが、銅像の無い記念室では、重みにも欠ければ、華もない。私は、本当に悩んだ。悩んだ末に、思いついた。羽織袴の、灘高や講道館などにあるのと同じ銅像ではなく、新たに御影オリジナルの柔道着姿ならどうだろう、と。権利は東灘区役所に持ってもらい、これから、柔道着姿の嘉納治五郎は御影が版権を持つようにしようと思い至ったのだ。これは、同時に区役所の屋久課長も思い至っていたようで、二人でガッチリ握手。高嶋良平会長の賛意を受けて、作業を進めることになったのだ。

そのようなわけで、世界でたった一つの、柔道着の嘉納治五郎ができたのだった。そんな像を作り、我が子を手放すような気持ちで大切に大切に運んで下さったのは、株式会社アルプロの古里社長御一家。長男と次男の、三人でやってこられた。「僕が運転したんです」と誇らしげだったのは、次男の古里定助さん。

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本当に厳重に梱包されていた銅像は、車から降ろし、箱を解体してからハンドパレットトラック(手押しの起重機)に乗せて、慎重に館内に搬入された。

記念室は地下1階で、エレベーターに乗せるのに一苦労。ハンドパレットトラックが大きくて入らず、500kgの像をそのまま入れることになったが、なんと8人がかり。

記念室に到着すると、今度は大切な台座が届いていなかった。御影の大理石でつくられているのだが、これまた250kgもあって大変だったが、最後は再び、ハンドパレットトラックで安置できた。

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鎮座した像に、私は語りかけた。「良く来て下さった。これから先生の誕生した御影で、一緒に暮らしましょう」「先生の柔道着姿の御姿は、世界中でここ、御影公会堂にしかありません。先生のおつくりになった灘高等学校をはじめ、多くの足跡と思い出のつまった御影に、先生は帰ってこられました。これから、先生の存在に多くの子供達が、そして私達が大切なことを学ぶでしょう」と。

それは、多くの善意と夢と心が詰まった、柔道着姿の嘉納治五郎先生だった。
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