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2017年 01月 13日 金曜日

私は、訃報のあまりの無念さに、忘れようともした。そんなことは無かった、と思いたかった。だが、その写真を見てようやく、現実を受け入れる気持ちになれた。そこで、当ブログに書くことにしたのだ。写真とは… 今日、JC(神戸青年会議所)の先輩のNさんから届いたお便りに同封されていたもののこと。

樽本 久 先輩のお声がけで作った東雲会の歴史にも触れられていたその手紙には、樽本先輩が、昨年の「東雲会」が催された4日後に急逝されたとあり、同じくJCの先輩であり、JC第10代理事長の樽本 久 先輩と木下 健 13代理事長が、昨年11月24日に行われた東雲会(灘区・東灘区の、JCとOBの集い)の時に並んで写されたスナップ写真などが同封されていたのだ。
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私は、それらの写真を見てしばらく、涙を堪えきれなくなっていた。樽本先輩は恰好良く優しく、男らしく、私の憧れであり、恩人でもあった。

私はアメリカ留学から帰国後すぐに、当時兵庫県知事を引退し、参議院に転出された金井元彦知事の青年団長として、1971年の第9回参議院議員選挙で、選挙戦の指揮をとった。その後、兵庫区で市議選に出馬する準備を始めていた頃、東灘区の山本圭一市議の死亡に伴う補欠選挙に東灘区から出馬するようにと、JCから送り出して下さったのが、樽本先輩なのだ。当時の実力者、故 大野 栄美夫 元兵庫県議会議長との話し合いも経て、その補欠選挙に出馬したのが、私の議員人生のスタートだった。

当時の宮崎辰雄市長が、神戸沖関西国際空港の建設に反対するという裏切り行為に出たために、怒った神戸財界が故 砂田重民代議士を立てて、当時の故 田中角栄(大臣〜首相)も交えて歴史に残る大選挙戦を戦ったのが、1973年。その時、JCの理事長として若い経営者を率いて辣腕を振われたのだが、敗れてしまった。

しかし、そんなJCの奮闘ぶりは世間に広まり、JCから議員を出せる気運が生まれていた。私は、そんな流れの中の一人だった、というわけだ。

実は、樽本 久・金井 元彦・木下 健の三先輩も、兵庫高校の同窓。いわゆる武陽会の仲間で団結は強かったが、指導も厳しかった。樽本先輩にはよくお叱りを受け、「議員を辞めろ」とまで言われたこともあった。それでもお優しくて、しっかりと私の話しに耳を傾け、最後には肩をたたいて見送って下さったものだ。

今月26日に持たれるというお別れ会には、泣き崩れるかも知れないが勇気を持って出席しようと、これを書きながら、そう心に決めた。