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2016年 08月 02日 火曜日

人の人格や情や品格は、学歴や財産で決まるものではなく、いかに人様のためになるか、社会に対する責任を果たすか … 或いはまた、信仰など、様々なことによる。そう思うと… 自分 … 私自身のなんと小さなことかと、自省しきり。そう思うのは、御影山手の、私道公営化の流れを振り返ってみたからだ。

文教地区の御影山手は神戸市の誇る高級住宅団地だが、この団地が開発されたのは、昭和45年。神戸市の宅地開発指導要綱が出来上がる以前の昭和38年4月に開発申請され、昭和40年に完成したため、道路が私道のままになっていた。

御影山手四町目の住民であるKさんが、将来のために公営化の運動を起こそうと、平成23年2月頃、当時の山中自治会長に訴えて、田中理事と高木理事がその任に当たることになって、資料収集と学習を始められた。私道の公営化特別委員会が結成され、第1回に四丁目の皆様が集われたのが同年5月8日。以来6年、苦労を重ねられの実現だった。

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▲ 難題だった押印
私は山中会長から参加を求められ、主に役所へのパイプ役を果たした。多くのハードルがあったが、中でも、私道を測量し境界を明示するための費用の捻出と、道路に面する80軒からなる世帯の皆様からご承諾をいただいて155人の方々から実印を頂くのが、難題だった。

まず、測量などの諸費用。面積割りか軒数割りかで議論しても、話しが進まない。自分の土地を神戸市に寄付して、さらにお金を出してまでは … となる。そこで私は、開発者の方の御協力をいただこうと提案した。

実は、私には経験があった。東の方の団地で、同様のことがあったのだ。そこは、開発者が良い方で、「私の山に住んで下さるのに、不便をおかけしては」と、開発者のTさん・Oさんお二人が約1千万円を出して下さったのだが、それでも12年間がかりだった。あの時は、住民の代表が実印を集めた。御影山手はこの困難な作業を、御影の古米司法書士事務所に依頼したのだが、これが、成功の鍵だった。

受けた古米さんは、一軒一軒を訪ねて説明し、155人の実印を頂いたのである。本当に、本当によくやって下さった。住民の田中さんと高木さんはその補佐にまわり、住民の方々に状況報告を欠かさず、徹底的に情報を開示し続けられた。私と共に、神戸市に何回も出向き、訴えてもくださった。

市も協力をしてくれたが、役人が変わる度に方針がずれるので、苦労した。法務局も同じようなことがあったが、古米さんと住民が、粘り強く戦った。偶然だったが、開発者の嶋崎さんは神戸甲南ライオンズの仲間。残念ながらすでに他界されていたが、立派な人格者であったと存じ上げていた。その遺産を管理されている岡浦さんを通じて、遺族の方々に御厚情をお願いした。ここでも、古米さんが頑張られ、田中さん・高木さんが補佐した。こうして、岡浦さんのお蔭で、開発者の協力が実った。

突然、その岡浦孝吉御夫婦が私の事務所に、菓子折りを持ってお礼がてら、パーティに出席できないお詫びに来られたのは、パーティ前日の7月27日のこと。私は、驚くと同時に、穴があれば入りたくなった。私の方からお礼に行かねばならないのに、お礼に来られるとは、逆である。私は改めて、住民のためにと多額の出費を厭われなかった、その人柄に打たれた。

翌28日、御影山手自治会館で行われた私道公営化達成記念パーティには、私と足立ボランティアを来賓としてご招待くださった。岡浦さんは、「住民の皆様にお役に立って、嶋崎も開発者として草場の陰で喜んでいます」と仰った。私は、黙って深々と頭を下げるばかりだった。私はスピーチを「この運動は、本当にいい人ばかりが集って成功した。皆さんは皆で自分の事でなく、皆様の子供や孫にいい仕事をして下さいました。私は、この戦いで多くを学びました」と切り出して、岡浦孝吉さん夫妻の件をお話しした。
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この戦いは、Kさんの発想から始まって成功した。本当にささやかな祝いのパーティには、善意と感謝に満ちた、御影山手らしい品格が感じられた。映画好きの私はそこで、黒沢明の「七人の侍」の中でも、民主主義の原点として特に気に入っているその最後のセリフ「勝ったのは農民だった」を思い起こしたのだった。
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